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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
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四国キャラバン2018の証言一覧です。
それぞれの方のお名前から証言概要にリンクします。
とりあえずは旅の様子としてお伝えしたものを、それぞれの日からリンクします。

11月22日(木)
訪問地:香川県山豊市
午後
体験者の方
◎政本道一さん(97歳)
善通寺の部隊に入隊。1943年春 ニューギニアの野戦病院へ。
旅の様子 その1 その2

11月23日(金)
訪問地:高知県高知市
午前
体験者の方
◎国本留歌さん(97歳)
昭和17年入隊、第20軍司令部で中国に。
旅の様子 その1 その2 眉山

11月24日(土)
訪問地:徳島県阿波市
体験者の方
午前
◎野口カネ子さん(92歳)
女性。大阪市電の運転手として大阪空襲を経験
午後
◎南満州鉄道勤務、現地召集~シベリア抑留
旅の様子 その1 その2
四国キャラバン11月24日(土)の様子です。
11月25日(日)の昼ごろにメーリングリストに流れたものです。
今日・明日の後の()内はブログ係による補足です。

◆◆◆

昨日(11月24日(土))は徳島キャラバンでいつもお世話になっている二條さんのご紹介・ご案内でお二人を訪れました。

野口カネ子さん(92歳)は、尋常小学校高等科卒業後地元の筒井製糸に軍隊用の乾燥芋の製造に駆り出されていましたが
(朝ドラで話題の根菜切断機でスライスされた芋を、乾燥させるためベルトコンベヤーに並べる作業だったようです)、徳島にはろくな徴用先もないしと、姉の嫁ぎ先である大阪に。

姉の家の近くに大阪市電の築港車庫があったので職員に応募。
三か月ほどの研修で車掌になりますが、若い男性がいなくなったためさらに短期間の訓練や年配運転手についての見習いで運転手になります。
運転手にはさすがに年齢制限があったらしく、友達が先に運転を始めたのを羨ましく思っていましたが、ほどなく野口さんもデビュー。

「いやー、若気の至りよね、あんなんでどんどん運転して」と笑う野口さんですが「田舎者で真面目だったから、日曜日とか遊びに行きたいという人とどんどん代わって」せっせと働いた結果、月の稼ぎは90円に!(当時の満鉄職員クラス)、家に40円は仕送りをしていました。

空襲の警戒警報の時は、「電気を豆電球みたいに暗く落として走った」そうで、そんなある日上本町6丁目を運行していた時に空襲に遭い、急な呼集で近くの連隊に向かうらしい兵隊さんが車両から降りたとたん足を焼夷弾でえぐられ倒れましたが、助けようにも後ろから車両が詰まっているし、とにかく早く列車を出せと言われてそのままに。
運行は続けて車庫に戻ると寮は全焼していました。

この空襲がいつのことかは不明で、日中の出来事だったと言われるので、3月13日・14日の一次大阪大空襲ではありませんし、かといって大きな空襲の記憶はお持ちではないのでその前の散発的なものなのか少し調べてみようと思います。

実家から送ってきた芋や豆を、親しい人たちにおすそ分けを済ませて自分は翌日に食べようと楽しみにして取ってあったのも、可愛らしい下駄を買ってまだはかずに並べてあったのも全部焼けちゃってと、本当は箪笥貯金だったので貯めたお給料も全部焼けたはずだし本当に着の身着のままになってしまっているのですが、残念に思い出すのはそういう事なのだなと思いました。

何もかも無くなったし、お姉さんも出産で帰京していたので、殆ど誰とも会わずにそのまま帰京。
戻ると故郷では市場飛行場の建設が始まっていて、祖父母の家や田んぼが該当地に入っており、立ち退きで1万数千円貰ったとおじさんが初めて見る1万円札を皆を集めて見せました。(戦後そのお金は返すことになったと思うとのことですが、返却割合には諸説あります)

敗戦後、進駐軍が来ることになり、女性は襲われると言われて鍋窯の炭を付けて山奥の竹やぶの中にある親戚の家を頼ったそうで、家に戻った後も、今度は市場飛行場の残留爆弾を爆発処理すると言われまた地区じゅうで避難(これは頼み込んで海中投棄になった)最初から最後まで聞きどころ満載のお話でした。
四国キャラバン11月23日(金・祝)の様子です。
11月24日(土)の朝にメーリングリストに流れたものです。
今日・明日の後の()内はブログ係による補足です。

◆◆◆

昨日(11月23日(金・祝)は高知市内で国本留歌さん(97歳、大正10年5月生まれ)のお話を伺いました。

国本さんは、四万十町の農家、7人兄弟の5男。進学は考えられない環境でしたが、お姉さんが買ってくれた少年倶楽部に載っていた募集を見て逓信省の大阪逓信講習所を受験。賃金が払われて技術を身に付けることが出来、寮制で、当時は逓信省と鉄道省にだけこういう制度があったそうです。
受験費用は親に頼み込んで出してもらい、合格しました。

昭和17年現役入隊すると、地元40師団の通信隊に配属されて中国へ。
技術をかわれてすぐに第6方面軍司令部や20軍司令部で無線の通信兵として働くことになります。

各師団の戦況を受信し、命令を送る仕事で、基本的には定期通信ですが、それ以外も受信機はずっと耳に付け、勝手に違う周波数にも変えて米軍や中国軍の通信を聞いていました。
日本軍も作戦ごとに暗号は変えていましたが、実際にはすぐにばれてしまうようで、解析されていたのかスパイがいたのかは分からないけれど、米軍の通信内容から自分たちの通信が解読されていることに気付くこともあったと言います。

司令部の通信兵ですから、基本的に前線に立つようなことはないのですが、司令部用に中国人医師の立派な家を接収した時、二階に上がると洗濯板と真っ白な女性用の足袋がありびっくり。
家人はもう避難をした後で周りの農民に聞くと、日本で医学を学び、日本人女性を妻に連れ帰った人が住んでいたようで、その時は自分たちが来なければ平和な生活があったのにと、とても申し訳ない気持ちがしたとおっしゃってました。

もっともその家の床下から隠されている大きな塩の壺を見つけ早速接収、現地の人たちにも配ったので拝まれたとのか・・・。

物資に困るような部署ではありませんが、敗戦時少し食糧の輸送が途絶えた時期があり、現地の稲刈りをしたり、草取りをして
物を貰ったりしたことはあったそうです。

敗戦も米軍の無線を聞いている時に知ったそうで、南方の戦況も、本土の空襲や原爆も知ってはいましたが、それでも本当に思いもかけない驚きだったそうです。
敗戦した国に帰っても仕方がないし、このまま中国にいようという動きの噂はありましたが、国本さん自身は早く帰りたいと思ったと。
通信機は中国軍に取られるのはと思い揚子江に投げ込みましたが現地の人に通報されて引き揚げろと命令され、仕方ないので
数基だけ引き揚げてごまかしました。

復員は21年6月、20軍全体が引揚げを終わってから戻ることになったので、そこまで時間がかかったけれど、当時は、陛下から預かった兵隊を全部返すことが出来て良い仕事をできたという気持ちだったとそれは何度も繰り返しておられました。

97歳でいらっしゃいますが、戦争の話を聞いてくれたのはあんたが初めてと言われた聞き取りでした。
今日は徳島、いつもお世話になっている会員の二條さんが掘り起こしてくださった二人の方に会いに行きます。
四国キャラバン11月22日(木)の様子です。
日々、翌朝までには現地からの報告がメーリングリストに流れていたのですが、私が転載するタイミングを外しました。すみません。
今日・明日の後の()内はブログ係による補足です。

◆◆◆

連休に資料館開館日を一日付けて四国に聞き取りに来ています。
3日間で3県4名を回る、沖縄をのぞけば久しぶりにキャラバンらしいキャラバンです。

昨日(11月22日(木))は早朝に東京を出て陸路香川県に。
キャラバンの常ですが乗りなれない電車(2両編成)がワンマンに変わるとボタンを押しても空かなくなる扉があるらしい張り紙があるのに車掌さんの姿が出たり消えたりなことに物凄くハラハラしたり、海岸沿いの物凄くギリギリを走るため海側の反対座席から見るともう海の中を走っているようにしか見えないことに驚いたり(千と千尋の神隠しみたいな風景)、そんな旅情も味わいながら目的地の三豊市高瀬駅に。

駅では3名のご老人がお出迎え。
お話しを伺う政本道一さん(97歳、大正10年5月生まれ)と一緒に地元の小学校を回っている「平和を守ろう会」の方々が車を出して下さることになっていたので、その方々だろうと思ったのですが、「私が事務局長で、こちらが会長で、こちらがご本人」とさらっと紹介。お二人の80代前半の方と見分けもつかず殆ど同じ感じで立っておられたので一瞬聞き間違えたかと仰天しました。
ご案内頂いたのは、政本さんご自宅脇の広々とした土間のような空間で、一面に絵手紙や彫刻、戦争関係の展示物が並びギャラリーになっています。

政本さんは、善通寺の陸軍病院などで教育召集を受けたあと一度除隊になりますが、すぐに再召集。
今度は生きては帰れないなと怖くなったとのこと。
先ほど待ち合わせた高瀬駅から見送られ善通寺の部隊に入隊。即日高松に向かい翌日には宇品から出向。一月をかけて東部ニューギニア・マダンの兵站病院に送られました。
1943年春のことです。

兵站病院はまだ建築前で、ジャングルを切り開いて木材を作り何棟もの病棟を立てる重労働で、建設後は各地の野戦病院から兵站病院の患者の輸送最初の状況がまだ許す頃にはパラオへの患者の後送も担いました。
薬が無いので麻酔薬無しの手術で患者を押さえつけたことは幾度も。最初の頃は負傷兵と病気の兵隊は半々で、砲弾で頭や顔を砕かれた兵隊も多く観たと言います。

当然遺骨をとる余裕はなかったのですが、死んでいく兵隊があまりに可哀想で、政本さんは遺体の髪を切りそれをカルテのような用紙に貼って保存整理をしていたそうで、戦後も衛生兵用の繃帯嚢に入れて持ち帰り、木彫りをした仏様と一緒に全国のご遺族に送りました。
そのため最期の様子を聞くために訪ねてくるご遺族も絶えなかったようです。

しかしそのうちに兵站病院部隊自体がさ迷うことになり、海岸を歩いたり、船に乗ったり、撤退を繰り返し、次第に他の部隊と混ざっていきます。
タロイモや魚を採り、海水で塩を作り、カエルぐらいは生で食べ、人食い人種がいたものの、マッチや、なぜか下痢に効く歯磨き粉を渡すと食糧を持って来てくれたそうです。

ニューギニアの戦場は地獄と形容されることが多いですが、それに負けず劣らず、ニューギニアに着くまでのひと月、何処にいるのかも何処に向かうのかも、時には今日が何日かも分からず、他の兵隊とそういうことを話すのを禁じられ船で運ばれていった時間が苦しかったと幾度も繰り返しておられるのも印象的でした。

同席された「平和を守ろう会」の方々は地元上高瀬の遺族会の方々で、政本さんの絵手紙の中で戦争を扱った一群があるのを目にして、それを紙芝居にし、政本さんが年を重ねてもお話を続けやすいよう資料や道具の整備、お話先の開拓など熱心にサポートしておられました。
この紙芝居は小学生向けと考えると結構ハードコアで頼もしくまだまだこういう環境もあるのだなと思いました。

昨晩はそのあと高知入り、今日は高知市内での聞き取りです。
明日から2日間は慶應義塾大学でイベントがあります。

慶応義塾福沢研究センター「慶応義塾と戦争」アーカイブ・プロジェクト
「慶応義塾と戦争」

学徒出陣75年シンポジウム/研究報告

12月1日(土)
第1部 シンポジウム
開場12:30 開始13:00 終了18:00

12月2日(日)
第2部 研究報告
開場9:00 開始9:30 終了17:30

場所
慶応義塾大学三田キャンパス南校舎ホール

参加申し込み不要
入場無料

主催
慶応義塾福沢研究センター
電話:03-5427-1605