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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
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昨日紹介した、沖縄キャラバン2012の石垣島での聞き取りの様子に関して、多少の補足を試みます。
「鉄血勤皇隊は中3からだと思っていた」「勤労動員では?」とのコメントを見て、気になりましたので。
報告をしているメンバーの方が、大戦全般についての知識は、ブログ係より相当あります。しかし、鉄血勤皇隊等については勉強会でもやっていないので、保存の会のメンバーみんなよくわからない面が多い状況です。昨日は、その辺をあえてそのままにしてメーリングリストを引用しました。

学徒隊に関する資料をあたってみると、八重山農学校及び八重山中学校の鉄血勤皇隊は、2年生以上の生徒で編成されたとされています。
両校の2年生以上、合わせて200名余り(正確な人数は不明)。通信班、対空監視班、迫撃班の3つに分けられ、さらに通信班は有線班、無線班、暗号班に分けられたとのこと。

というわけで、2年生からは普通に鉄血勤皇隊になったようです。
鉄血勤皇隊編成よりだいぶ先立つ1944年初頭から、飛行場建設や陣地構築のための動員が始まっており、そのころは国民学校の児童も駆り出されていたということです。
ちなみに、八重山農学校は1937年、八重山中学校は1943年の開校。開校したころはすでに戦時体制という状況であり、1944年には校舎は軍に接収されてしまいます。さらに、八重山高等女学校は、1942年に設立され1945年3月にようやく完成した校舎が、陣地の建築資材確保のために2ヶ月後には解体されたそうです。

昨日の報告で、通いの鉄血勤皇隊の作業内容が飛行場偽装や壕掘りということから、勤労動員ではないかという疑問が出ていることについてですが、両者を区別するおそらく決定的なポイントがあります。
それは、鉄血勤皇隊は2等兵であるという点です。階級章がもらえなかったところもあったようですが、そういう場合でも、それぞれの部隊の2等兵という扱いになっています。
今回お話を伺った方の証言にその辺りが出てきていたのかどうかはわかりませんが、確認してみるのがよいポイントでしょう。

護郷隊の場合も、2等兵として入隊しています。
この辺は、捕虜になったとき等、軍人か民間人かで分けられる際に影響する場合があったようです。

まさに、聞き取りのために覚えておいた方がよさそうな点ですが、実際お話を伺ってみて気がつくようなことでもあるなと思います。


参考資料:ひめゆり平和祈念資料館資料集4「沖縄戦の全学徒隊」

その他、内閣府沖縄戦関係資料閲覧室でいくつかの書籍を見てまとめました。
他の戦地についても、近くに資料館があるといいなあと思う今日この頃です。補足説明関係、もう少しいろいろな方面でやれたらいいなと。
沖縄戦の経過として、基本的なところは前に載せましたが、今回、もう少し作戦や戦闘に注目して年表を書いてみます。時期によって32軍の戦況がどう変わったか、それに伴って住民がどういう状況におかれたかが少し見えてくればと思います。
年表だけでは位置的なことがわかりづらいですが・・・地図は今後余力があれば、ということで。
また、本やサイトにより、日付がずれている場合があります。今回、聞き取りのためにだいたいの時期がわかるようにという意図でスピード重視でまとめました。正確なところは、落ちついて公的一次資料等を見て確認する必要があるでしょう。

●1941年
沖縄本島中城湾、西表島船浮に臨時要塞建設。

●1943(昭和18)年
6月25日 「学徒戦時動員体制確立要綱」決定

●1944年(昭和19)年
2月25日 「決戦非常措置要綱」決定。
3月22日 南西諸島に第32軍創設。(最初の拠点は那覇市安里の蚕種試験場)
4月10日 沖縄方面根拠地隊(海軍)新設。
5月   各地に飛行場建設が始まる。
7月7日 南西諸島の老幼婦女子・学童の集団疎開閣議決定。
7月   第32軍の各師団、独立混成旅団着任。
8月22日 対馬丸、悪石島付近で撃沈される。
10月10日 沖縄大空襲(十・十空襲)。
10月29日 第1次防衛召集(17歳から45歳までの健全な男子を防衛隊として召集)主に飛行場建設に従事。
11月   第9師団の台湾抽出決定。

●1945(昭和20)年
1月10日 第32軍司令部を首里に移転。
1月22日 大本営、第32軍に第84師団の編入を内報、翌日取り消す。
1月26日 第32軍、戦略持久へ配備変更開始。
1月20~31日頃 第2次防衛召集(17歳から45歳までのほとんどの男子を召集)
2月15日 第32軍、沖縄県下の軍民に「1機1艦船、1艇1船、1人10殺1戦車」の戦闘指針を示達。
    県下各市町村単位の「国土防衛義勇隊」が結成される。
3月1日 米機動部隊、沖縄県内各地を爆撃。
    大本営「天一号」航空作戦を決定。
    沖縄県立第2中学校生徒の一部、部隊へ入隊する。
3月5日 沖縄県民の県外疎開打ち切り。
3月6日 国民勤労動員令公布。
    沖縄県の15歳から45歳までの男女を「根こそぎ」動員する。
3月10日 第32軍、伊江島飛行場破壊を命令。
3月17日 硫黄島の日本軍守備隊、玉砕する。
3月20日 大本営「当面の作戦計画大綱」発令、沖縄作戦に重点を置くことを決定。
3月23日 米軍が沖縄諸島に空襲を開始。
     国民義勇隊の編成が閣議決定。(国民学校初等科終了以上~男子65歳以下、女子45歳以下の全国民が国民義勇隊に原則的に参加することとされる)
3月26日 米軍、慶良間列島に上陸。地上戦が始まる。
3月30日 米軍、本島南部湊川方面に陽動作戦。
4月1日 米軍が沖縄島西海岸の読谷・嘉手納・北谷に上陸する。
4月6日 大本営、「菊水作戦」により神風特攻隊、戦艦大和の出撃を命令。
4月7日 南西諸島防衛のため沖縄に向けて出撃した戦艦「大和」が九州南方において撃沈される。
    米軍、名護侵攻。
4月9日~20日 嘉数高地の激戦
4月16日 米軍が伊江島に上陸。
5月4日 第32軍、総攻撃に出るが失敗。翌日中止。
5月8日~18日 シュガーローフの攻防。
5月24日 義烈空挺隊、北・中飛行場に強行着陸。
5月27日 第32軍司令部首里撤退。南部へ。
5月31日 米軍が首里を占領。
6月2日 八重山で住民をマラリア有病地帯へ強制疎開。
6月13日 海軍大田実少将自決。日本軍の海軍部隊が壊滅。
6月18日 米軍司令官バックナー中将が糸満市真栄里で戦死。
6月19~20日頃 沖縄における日本軍の組織的抵抗がほぼ終わる。
6月22日 「戦時緊急措置法」公布(6/23施行)
6月23日 牛島第32軍司令官が糸満市摩文仁で自決。
6月26日 米軍が久米島に上陸。
7月2日 米軍が沖縄作戦の終了を宣言。
7月26日 連合軍が対日ポツダム宣言を発表。
8月14日 ポツダム宣言の無条件受諾を決定。
8月15日 昭和天皇による玉音放送。終戦。
9月2日 日本政府が東京湾のミズリー号で降伏文書に調印。
9月7日 南西諸島の日本軍が降伏文書に調印。
沖縄キャラバン2012では一部メンバーが石垣島へ行くことになっています。
ここでは、主に戦争マラリアのお話を伺うことになっているようです。

八重山地区は地上戦は行われませんでしたが、主にイギリス軍による艦砲射撃や空襲を受けました。
沖縄本島の戦闘が劣勢になる中、八重山地区も上陸に備えて住民疎開が行われます。
この時疎開先とされたところが、マラリアの有病地帯であり、栄養状態・衛生状態の悪さが重なって、多くの住民がマラリアにより犠牲になりました。
また、疎開を行う際に家畜等を処分していたために、疎開から戻っても数カ月は食糧難であり、マラリアの発生や衰弱死は長く続いたということです。多くの人がすでにマラリアに罹患した状態で戻ってきたため、体力が落ちると発病するわけです。1947年頃まで、戦争マラリアによる死亡者が出ていたようです。

沖縄本島北部にも、同様にマラリア有病地域があり、米軍の収容所になった場所でも多数の犠牲者を出したようです。
米軍上陸以前、北部への疎開が決定された後もなかなか疎開が進まなかった要因の1つでもあります。

現在は沖縄のマラリアは撲滅されています。
西表島の「忘勿石(わするないし)」等、戦争マラリアに関係する戦跡もあります。今回のキャラバンでは、疎開先までは行けませんが、今後戦場体験アーカイブスをつくっていく中では、現地に行ってみることができればよいと思います。
沖縄戦のおおまかな経過です。
資料によって微妙に日付が違うことがあるところについては、○日頃という形でまとめました。

●1943(昭和18)年
6月25日 「学徒戦時動員体制確立要綱」決定

●1944年(昭和19)年
2月25日 「決戦非常措置要綱」決定。
3月22日 南西諸島に第32軍創設する。
7月7日 南西諸島の老幼婦女子・学童の集団疎開閣議決定。
8月22日 対馬丸、悪石島付近で撃沈される。
10月10日 沖縄大空襲(十・十空襲)。
10月29日 第1次防衛召集(17歳から45歳までの健全な男子を防衛隊として召集)主に飛行場建設に従事。

●1945(昭和20)年
1月20~31日頃 第2次防衛召集(17歳から45歳までのほとんどの男子を召集)
3月1日 米機動部隊、沖縄県内各地を爆撃。
    沖縄県立第2中学校生徒の一部、部隊へ入隊する。
3月6日 国民勤労動員令公布。
    沖縄県の15歳から45歳までの男女を「根こそぎ」動員する。
3月17日 硫黄島の日本軍守備隊、玉砕する。
3月20日 大本営「当面の作戦計画大綱」発令、沖縄作戦に重点を置くことを決定。
3月23日 米軍が沖縄諸島に空襲を開始。
     国民義勇隊の編成が閣議決定。(国民学校初等科終了以上~男子65歳以下、女子45歳以下の全国民が国民義勇隊に原則的に参加することとされる)
3月26日 米軍、慶良間列島に上陸。地上戦が始まる。
4月1日 米軍が沖縄島西海岸の読谷・嘉手納・北谷に上陸する。
4月7日 南西諸島防衛のため沖縄に向けて出撃した戦艦「大和」が九州南方において撃沈される。
4月16日 米軍が伊江島に上陸。
5月27日 第32軍司令部首里撤退。南部へ。
5月31日 米軍が首里を占領。
6月13日 海軍大田実少将自決。日本軍の海軍部隊が壊滅。
6月18日 米軍司令官バックナー中将が糸満市真栄里で戦死。
6月19~20日頃 沖縄における日本軍の組織的抵抗がほぼ終わる。
6月22日 「戦時緊急措置法」公布(6/23施行)
6月23日 牛島第32軍司令官が糸満市摩文仁で自決。
6月26日 米軍が久米島に上陸。
7月2日 米軍が沖縄作戦の終了を宣言。
7月26日 連合軍が対日ポツダム宣言を発表。
8月14日 ポツダム宣言の無条件受諾を決定。
8月15日 昭和天皇による玉音放送。終戦。
9月2日 日本政府が東京湾のミズリー号で降伏文書に調印。
9月7日 南西諸島の日本軍が降伏文書に調印。
今回の話は、聞き取りに役に立つのかむしろ混乱するのかわからない内容ですが、先日「沖縄戦における動員の形」と関係あるので、一応書いておこうと思います。
2011年12月4日付『琉球新報』に、「17歳未満召集で規則改正 沖縄戦前に法的根拠」という記事が出ています。
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-184796-storytopic-1.html

先日沖縄戦の防衛隊・義勇隊についてまとめたときは、1944年10月の陸軍防衛召集規則改正と1945年3月の国民義勇隊編成の閣議決定が根拠というので、私はなんとなく納得していたのですが、そういうものでもないということでしょうか。
ちなみに、先日の内容は、沖縄県平和祈念資料館の図録等をもとにまとめたものでした。

上記の新聞記事によると、
◆1944年10月20日、陸軍特別志願兵令施行規則の改正で、14歳以上も志願すれば第2国民兵役に編入可能となる。
◆同年12月12日の防衛召集規則改正で、志願した14歳から17歳未満を防衛召集として実際戦地等に導入可能となる。
◆14歳以上の召集は沖縄等から適用、1945年3月に地域制限撤廃。

1945年3月に国民義勇隊の編成が閣議決定されるより前に、志願していれば1944年10月の時点で14歳以上の作業中心の動員、12月からは防衛召集で戦闘要員としての動員ができることになっていた、ということでしょうか。
一応、17歳未満の兵役編入では、本人や親権者の印鑑、市町村長の書面等が必要で、審査も行われることになっていたけれども、実際はそういう手続きを踏まずに召集された例が多い、とあります。
少年兵の方の体験を伺うと、親の印鑑をこっそり押したという話がよく出てきますが、そういった例を含めても印鑑を押しているというのは実は少数派だったということのようですが。
この辺りは、戦場体験放映保存の会で集めた証言とそれ以外のところでの証言蓄積とで傾向が違うのかどうか、比べてみる余地があるのかもしれません。

しかし、どんな法的根拠があったのかということについては、実際召集された方々にとってはあまり関係なく、ともかく召集とあれば行くことになっていたのでは?という気がするのですが。
聞き取りを行う際に、その辺りをどこまで意識して聞くのがいいのかは、正直よくわかりません。「聞き取りのための知識」として言えるのは、召集されたときの様子、気持ちについて質問してみよう、というところまでかと思います。