FC2ブログ
あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
TOPフリーエリア
65年前の私たちの戦場体験を放映保存する
元兵士の連絡所


元兵士から孫世代まで、ご連絡をお待ちしています
※質問、疑問などもお気軽にお問い合わせください
電話 03-3916-2664
※戦場体験史料館開館時間=火・木・土・日・祝日の10時~17時
FAX 03-3916-2676
e-Mail senjyou@notnet.jp
※FAX、Mailは24時間受付
住所 〒114-0023 東京都北区滝野川6-82-2
     戦場体験史料館内・元兵士の連絡所

戦場体験史料館までの道順
「第4回 あの戦場体験を語り継ぐ集い」登壇者特集です。
第1部登壇順に、登壇者の方を紹介しつつ、日比谷証言集会を振り返ります。
登壇者12人目は、中国で敗戦4か月後まで戦闘をされた梶泰治さんです。

梶泰治さん

梶泰治さん

スクリーンの画像です。
梶泰治さん

1942(昭和17)年1月10日、赤坂の東部62部隊に入隊(志願)
同年1月28日 夜中の1時、赤坂を出発し、宇品から貨物船乗船。釜山を経て、1月30日中国石家荘の旅団本部に到着。ここで入隊式。独立混成第8旅団独立歩兵第31大隊(春2981)第4中隊。
2月3日に中隊に到着したときには、主力は討伐に出ていた。本格的な戦闘部隊。敵は八路軍。
下士官候補となっており、半年間は集合教育。銃剣術や匍匐前進等。それから、学校で半年教育を受けた。
1943(昭和18)年6月、原隊復帰。7月に本隊と合流。このころから八路軍との戦闘が激化。戦死者も多く出た。行軍で苦労した。
1944(昭和19)年2月、第3中隊が抽出されたのに合わせて部隊編成が変わる。格中隊から選抜された新編第3中隊に入る。
同年4月に大隊長が変わり、戦闘回数が増えた。5月に冀東(きとう)作戦が始まった。敵3~4千人に対し、こちらは500人程度で戦闘。戦死者多数。
7月、方面軍の命令で、春兵団は野戦機動部隊に。ほとんど自給自足、現地調達しながら一晩に40km歩いた。
8月、中隊長が戦死。この時の戦闘では、代わりに命令を出して突っ込んだ。足を負傷。
10月、遺骨護送を命じられ、一時帰国。
12月、軍曹に任官し、補充兵や現地召集兵の教育にあたる。
1945(昭和20)年1月、最後の現役兵が来たが、武器もほとんど持っていなかった。このころには、対米教育にやってきた大本営参謀も、この戦いは負けると言っていた。
3月、独立警備歩兵第14大隊1中隊に転属。ここではあまり戦闘はなく、分遣隊ごとの警備中心。現地の保安隊に頼まれて戦闘に出る程度。
4月末 、蒙家郷(もうかきょう)の分遣隊長になり、食糧の無い中で警備。
7月、中隊に戻る。
8月18日ごろ、討伐に出ているときに終戦の情報が入る。停戦という話。それから8月のうちに部隊を撤収。通州へ向かう。
9月、途中で満州から南下してきた下道(げどう)部隊(240連隊第1大隊)と合流して、在留邦人300名を掩護しながら司令部に向かった。川を渡るときは工兵隊が連なって人間の橋をつくってくれた。
このころ、まだ武装したままで、敗戦という話もなかった。
司令部到着後しばらく北京城の警護。11月~12月、八路軍に対して国民党軍の進駐を支援する戦闘で、部隊に大損害が出る。
12月13日、天津の港から米軍の船で佐世保へ。
12月17日、佐世保についてから山道を行軍して宿舎へ。

日比谷証言集会当日は、敗戦後4ヶ月間戦闘状態が続いたときのことを中心にお話しされました。
八路軍と戦闘を繰り返す中、8月15日以後も、国民党軍の側で戦闘をする場面があったのです。
梶さんは本番2週間前に行ったリハーサルにも参加されていましたが、なかなか時間通りに読み切れなくてご苦労されていたようです。4ヶ月分の体験が、とても濃い内容だったため、びっしりと文字を詰め込んでいらっしゃったのでした。
「春」兵団の方は、保存の会にはけっこういらっしゃるのですが(亡くなった方もいらっしゃいます)、梶さんはその中でも一番の古株というかんじで、中国で本格的な戦闘をされた体験者を紹介してほしいと頼まれると、よくお世話になっています。今回語られなかった最初の頃の戦闘の話も、とても貴重です。

梶さんの体験は、「戦場体験史料館・電子版」に証言概要が掲載されていますので、併せてご覧いただければと思います。
「第4回 あの戦場体験を語り継ぐ集い」登壇者特集です。
第1部登壇順に、登壇者の方を紹介しつつ、日比谷証言集会を振り返ります。
登壇者11人目は、フィリピン・ミンダナオ島で人間の極限状態を体験、谷口末廣さんです。

谷口末廣さん

谷口末廣さん

スクリーンの画像です。
谷口末廣さん

谷口さんの体験は、百人展のパネルになっているのですが、「戦場体験史料館・電子版」には証言概要が出ていないのに気づきました。保存の会公式ブログには、とても簡単な略歴が出ているのみ。
ということで、またネット上で見つけた情報をまとめます。

1942年1月10日、現役兵として入隊。関東軍10師団輜重10連隊、満州・佳木斯(じゃむす)に駐屯。
同年兵が殴られるのをかばって代わりに殴られ、戦友愛を認められて模範兵扱いに。
1944年4月、中隊長とのトラブルが原因で、同連隊より唯1人第133飛行場大隊補給中隊に転属。
同年7月、フィリピン・ミンダナオ島に送られる。
バレンシヤ飛行場に配備されてしばらくたった9月9日、敵機来襲。3波にわたる攻撃で10名死亡、飛行場は使用不能に。
1945年米軍が島の南北に上陸。
4月下旬、飛行場を放棄し、山岳地に撤退。
やがて第4航空指令部から現陣地を死守せよと命令がきて、補給中隊長に「いよいよ玉砕だ。遺書を書いてだせ」と言われる。家族の元には届かないと思いつつ、軍艇手帳を1枚破り、母にあてたお詫びを書く。
6月下旬には弾も食料も尽き大隊は解散、7人の部下と餓死線上の状況で山岳ジャングルを彷徨う。
別のグループに入った大川衛生一等兵が別れ際にくれたマラリアの薬「キニーネ」と胃腸薬のおかげでとても助かった。
解散後間もなく、軍曹の自決の話や、補給中隊曹長のグループによる部隊本部の乾パン略奪事件(見張りの3人を殺害)の話を伝え聞く。
自分たちのグループは家族として生きぬこうと誓ったが、やがて弱っていた2人の部下が姿を消す。
飯盒を囲む3人の兵士に出会って肉を分けてもらったが、別れた後、それが別の兵隊の肉だったとわかった。
芋畑を見つけたが、先にいた部隊に追い払われる。それでも2日置いてもらっている間に8月15日を迎えていた。
米軍機から投降勧告ビラがまかれるようになり、山を下りた。(5人の部下は、ふもとで斬り込みをするつもりだった。)
途中、白旗を掲げて出てくるグループに話を聞き、本当に敗戦となったことを確信する。
1945年9月30日投降 
1946年12月25日帰国

ミンダナオ島で大隊解散後彷徨していたときの様子が原稿集に載っています。
ところが、日比谷証言集会当日は、確信犯的(いやそのものの)大暴走。持ち時間の2倍を超える8分余りにわたって、ぶっつけ本番で話をされたのでした。
それなりに予想はしていましたが、お2人欠席されていなかったら、第2部がずれ込むところでした。
しかし、こういうぶっつけ本番の語りのほうが、臨場感と熱を持って伝わるもののようで。
客席からの拍手は大きく、新聞の事後報道でも、谷口さんの証言が選ばれることになります。
私自身は、舞台袖で原稿と時計とにらめっこしていたのですが、ずっとひやひやしていた余り、原稿に書かれた部分に入る以前に何を話されていたかはまったく記憶に残っていません。すみません。

公式ブログの掲載日が2005年6月1日ということでもわかるように、保存の会発足早々ごろにお話を伺ってから長いおつきあいです。
最初の頃は、谷口さんや猪熊さんたち不戦兵士の会の方々にお世話になり、他の体験者の方を紹介していただいたりしていたという話を聞いています。
なんだかんだいっても、保存の会の初期メンバーが今も頼りにしている方です。
「第4回 あの戦場体験を語り継ぐ集い」登壇者特集です。
第1部登壇順に、登壇者の方を紹介しつつ、日比谷証言集会を振り返ります。
登壇者10人目は、偵察機の搭乗員だった田中三也さんです。

田中三也さん

田中三也さん

スクリーンの画像です。
田中三也さん

そして今回も、田中さんの詳細な軍歴が出ていません。実行委員長が繰り返し聞き取りをしているので、twitterに登場されているつもりだったら、違ったのですね。
田中さんは、ネット上で多少プロフィールを見つけられるので、そういうものを参考に軍歴をまとめてみます。

1939(昭和14)年、甲種飛行予科練習生に志願(第5期)、霞ケ浦海軍航空隊に入隊。
操縦と偵察に分かれるところで、偵察のほうになります。
1942(昭和17)年4月、インド洋のアンダマン諸島へ。
同年8月、巡洋艦「利根」に乗艦し、零式水上偵察機に搭乗。ガダルカナル島奪還作戦で第2次ソロモン海戦に参加。
1943(昭和18)年8月、横須賀で第11期特修科飛行術(偵察専修)練習生に。
1944(昭和19)年2月、トラック島第151海軍航空隊、3月からは第101偵察航空隊。
同年5月、あ号作戦。二式艦偵でソロモン方面のツラギへの挺身偵察に成功し、連合艦隊司令長官より個人感状を授与されます。
同年7月より第141海軍航空隊で彗星偵察機に乗り九州、台湾、フィリピンで作戦。
10月、特攻隊として飛び立つ同級生に会いに行きました。
1945(昭和20)年1月7日、米軍のリンガエン湾上陸のため、基地撤収。北部のアパリへの敵中突破命令。
ツゲカラオ基地に到着したところで、偵察隊から1名特攻隊要員を出すよう言われ、名乗り出ます。彗星爆撃機で出撃の予定でしたが、零戦の1機の不調で翌日に延期になり、その夜搭乗予定の「彗星」が爆撃され飛行不能に。第27金剛隊指揮官住野中尉の零戦2機がリンガエン湾への特攻に出発するのを見送りました。
同年2月、343空偵察第4飛行隊に転属。「彩雲」で本土防空戦に参加。
5月より第171海軍航空隊で沖縄戦に参加。

月1回我孫子で開かれる田中さんの証言会に、実行委員長が毎回参加しています。
その関係で、日比谷証言集会開催情報を直接実行委員長から聞かれて、早速登壇をご希望されました。一番乗りで個人感状を受けた最も誇らしい話と、特攻の話と、2種類の原稿を書かれ、どちらにしようかと迷われていたということです。
当日は、幻となった特攻のお話を選ばれました。
死ぬのがこわいのではなく、まだまだ偵察を続けたいのだという思いが心に残ります。
実際、幻の特攻の後も、偵察員として相当ご活躍されていますので、ここで出撃しなかったことは、ご本人はもちろん、日本としても戦況という点ではよかったでしょう。
戦後も海上自衛隊から国土地理院委託の航空測量に従事されるなど、その方面で活躍されました。

飛行機乗りの方はなぜか今も自転車を駆使されることが多いようで、実行委員長が田中さんが自転車のそばに立たれている写真を撮っていました。
日比谷集会当日は、普段から田中さんの講演等をサポートされている方々がお手伝いに入ってくださって、とても助かりました。
何しろまだ進行形で聞き取りが続いているのでいつになるのかわかりませんが、証言概要が上がってきたらまた掲載したいと思います。
「第4回 あの戦場体験を語り継ぐ集い」登壇者特集です。
第1部登壇順に、登壇者の方を紹介しつつ、日比谷証言集会を振り返ります。
登壇者9人目は、「カウラの大脱走」を経験された村上輝夫さんです。

村上輝夫さん

村上輝夫さん

スクリーンの画像です。
村上輝夫さん

と、いつものように始めてみましたが、村上さんの軍歴を順々に書くことができなくて、数分間悩みました。
3年前に収録会をしたときにいたのですが、そのときのノートが見つからず。
当時のブログ記事を見ると、最初は中国で戦っていて、後にニューブリテン島へ転属のようですが。

ということで、まずカウラの話を書きます。

カウラ事件は、1944年8月5日にオーストラリアのカウラ収容所で起こった日本兵捕虜の集団脱走事件です。
カウラ収容所には1000人を超える日本兵の捕虜が収容されていました。食事や衣類は十分にあり、捕虜としては恵まれた環境だったといいます。
しかし、やはり過密だと考えられて、下士官と兵隊を分けて、兵隊をヘイ収容所に移動させるという話が出たところで、急きょ脱走が決まり、決行されたのです。
村上さんのお話では、トイレットペーパーを切ったものに○か×かを書いて投票したということで、本心ではなく、脱走賛成の○を書いたところ、多数決で脱走することが決まったのだそうです。
鉄条網を越えて、収容所を縦断する道路「ブロードウェイ」に出て、行くあてもなく走り、撃って来たら溝に隠れ、という状況。民家の人が助けてくれたりもしたようですが、結局全員が殺されるか捕まって連れ戻されるかということで決着。
日本兵230名以上(ネット上で見ると数人単位で違いがあります)、豪州兵4名が亡くなりました。
「大脱走」と呼ばれますが、当事者の日本兵からすると「暴動」「決起」にあたるようです。本気で逃げおおせようと思ったのではなく、死ぬためにあえて反乱を起こしたようなものです。何しろ、終戦より1年前、戦時中に大勢が捕虜になっていた例ですので、捕虜となることを恥とする思いは強く、それが下士官と兵隊を分けるという通達をきっかけに爆発的な衝動となったということであるようです。
村上さんは、カウラでの収容生活になじんでいらっしゃったようで、本音は兵隊どうしのほうがいいと思われていたようですが、やはり反対はできなかったようです。

村上さん、非常に陽気でポジティブな方です。
そして、フットワークが軽く、鳥取在住なのにときどき東京に来られていて、突然朝7時ごろに戦場体験史料館に顔を出されることがあります。
それで今回も当然のように日比谷まで来ていただいたのですが。前日から東京入りして、戦場体験史料館にいらっしゃってからホテルに移動されました。当日の夜も泊って都内をぶらぶらされたようです。
カウラ事件の体験者はほとんど亡くなってしまい、証言できるのは村上さんだけのような状況となっています。昨年も体験者としてはただ一人、カウラまで行かれたということです。百人展を開催するときには現地で拾ったカウラ収容所の鉄条網の一部を貸してくださっています。(持って見にきてくださるのです。)
日比谷集会当日には、何か勲章をお持ちになっていたようですが、見たメンバーからまだ話を聞いていません。
さすがに日比谷公会堂のステージは緊張されたのか、原稿が棒読みのようになっていましたが、客席の方々の心はつかんでいらっしゃったと思います。
司会の中島裕さんも、「カウラの話は聞きたい」とおっしゃっていましたので、間近で聞ける特等席(?)で聞いていただきました。

3年前のノートが見つかったら、村上さんの戦場体験全体を紹介したいと思います。(ちゃんとメモ取っていればいいのですが・・・)
「第4回 あの戦場体験を語り継ぐ集い」登壇者特集です。
第1部登壇順に、登壇者の方を紹介しつつ、日比谷証言集会を振り返ります。
登壇者8人目は、占守島通信兵として最後の電文を打たれた白崎勇次郎さんです。

白崎勇次郎さん

白崎勇次郎さん

スクリーンの画像です。
白崎勇次郎さん

1942(昭和17)年召集、陸軍航空通信隊に入隊。
1944(昭和19)年4月、占守島に配属になる。第11対空無線隊。
1945(昭和20)年8月15日、敗戦。兵士たちは、これで帰れると喜んだ。武装解除を進め、航空燃料用のアルコールを薄めて飲んだり。
ところが、3日後の8月18日、ソ連軍が占守島に攻め込んできた。自衛のために、応戦。
通信の相手だった隼部隊は北海道に帰ってしまっていた一方、海軍の特攻機が飛び立とうとするのを見た。乗員は笑顔で手を振っていた。
分隊長から「ソ連軍上陸地帯の我が守備隊は全滅した。戦車隊を前面に敵大部隊が飛行場目指して前進中」の情報を受けて、北海道帯広の本隊に最後の電文を送信。
「コレヨリ歩兵部隊ニ合流シ、最後ノ突撃ヲ敢行セントス。派遣隊員一同、士気マスマス盛ン。一命を祖国ニ捧ゲ、悠久の大義に生キル覚悟ナリ。」
飛行場前面に掘られた蛸壺で火炎瓶を握り締めてソ連の戦車が現れるのを待ったが、戦車は現れず生き残った。
ソ連労働大隊に編成替えされ、カムチャッカの捕虜収容施設に送られる。
1948(昭和23)年11月復員。

以上、ネット上で見つけた、第1回の日比谷証言集会に登壇されたとき等の白崎さんの書かれた文章をもとに、体験をまとめました。
第1回のときは持ち時間2分間ほどで、導入だけで終わってしまい、心残りでいらっしゃったようです。

体調がとても悪くなられていて動けない、という情報があったようですが、8月下旬、保存の会に「私は日比谷ではこういうことを話そうと思います」という内容のお便りが届いたのでした。これは、出るという意思表示ですよね、ということで、ご参加いただくことになりました。
当ブログの戦後70年特集で、8月19日に占守島の戦いのことを書いた時には、まだそのお便りは届いていませんでした。それで、そのときの記事は、日比谷集会の登壇者にはいらっしゃらないけど、と思いつつ、「占守島の証言に触れていただきたいと思っている」ということで締めていました。
それからほんの数日後、お便りが届き、お便りを受けたメンバーもびっくりしていましたが、私も違った方向から相当びっくりしました。
当日まで、体調管理を徹底されたようです。車いすですが、朝早くからいらっしゃいました。壇上でしっかり証言され、占守島での最後の電文を打電されました。
ちなみに、無線の打電、オープニングの瀬戸山さんは左手打ち、白崎さんは右手打ちです。
第2部まで会場にいらっしゃって、証言者の中では一番最後にお帰りになりました。
第1回の時にできなかったことは、今回やりきることができたでしょうか。