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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
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戦場体験史料館までの道順
「第4回 あの戦場体験を語り継ぐ集い」登壇者特集です。
第1部登壇順に、登壇者の方を紹介しつつ、日比谷証言集会を振り返ります。
登壇者17人目は、ビルマ北部の戦線を体験、今西久雄さんです。

今西久雄さん

今西久雄さん

スクリーンの画像です。
今西久雄さん

1943(昭和18)年8月召集。第53師団通信隊。
1944(昭和19)年1月、シンガポールへ。
1ヶ月の訓練を経て、ビルマへ向かう。
5月、ホピンの戦闘。第18師団が全滅しそうだというので、ビルマの中でも中国との国境地域へ。始めての戦闘、神経がおかしくなるようだった。
敵は英国軍だが、黒人やカチン族が先頭に立ってきた。敵の現地人を捕虜にすると、位の高いものだけ殺すか、ずらっと並ばせて殺す。銃剣で突けない初年兵がいると後ろから突き飛ばして殺させる。
勝った勝ったと盛り上がり、人を殺しても何とも思わなくなっていた。
8月、雨期は寒いので一度冬服を取りに戻って、再度前線、フーコン、キュングンへ。
蚊が多く、マラリアにかかる者が出た。自身もマラリアになり40度の熱が出たが、知り合いの衛生上等兵が通りかかり、キニーネを打ってくれたので軽快した。
転進命令が出たとき、動けない他の患者は、捕虜にならないよう殺して来いと言われ、1人が殺しに行った。(「殺してきました」と言っていたが、後に2人でマンダレーに下がったとき、実はそのまま置いてきたのだというのを聞いた。)
途中、イラワジ河畔で、インパール作戦から撤退して来る3師団を待つ。この間、飢えに悩まされた。食糧を求めて現地人と取引しても後で取り返しにこられることがあり、大勢殺した。
11月3日、自分ともう一人にマンダレーまで秘密書類を持って下がるよう言われる。(このもう一人が、マラリア患者を殺しに行った人)カラスや蛇を食べて進む。
12月27日、マンダレーの軍司令部に着くと、師団がほぼ全滅しており、イラワジ川を筏で下ってくるので待てといわれる。
1945(昭和20)年1月3日、マンダレーでの戦闘。イラワジ川から英軍の水陸両用戦車が進んできた。
500mぐらいの穴に隠れて戦車が通り過ぎるのを待ち、ジャングルに逃げた。
タイ国境を目指して南下。
8月、ラジオで「終戦」というのを聞く。「敗戦」と言わないし、敵は逃げていくので勝ったのだと思っていた。
9月、敵が白旗を持ってきて、戦争は終わったので10月7日にアーロンに集まるようにと告げる。武器を置いて集まったところで、敗戦だと知る。
10月15日、アーロンの収容所へ。それから3000名ほどがラングーンの収容所へ移送されることになり、希望を募った。
道路工事、遺体の発掘、鉄道工事、糧秣倉庫の運搬等、作業をする。最初の1年は虐待がひどかった。
1947(昭和22)年、宇品に復員。

当日のお話は、ホピンの戦闘、キュングンでマラリア患者を置いてきたことをメインに。
「弁論部だったから、4分の感覚は体にしみついている」と豪語、原稿を読むことを拒否されていました。
確かに原稿を読まずに、客席に面と向かって語るべきことを語りつくされました。
ただ、やはり時間オーバー。4分を知らせる合図に、「え、もう?」と振り返られているのが、記録映像にも残っています。
95歳、この日登壇された方の中では最高齢でした。

百人展には、第53師団通信隊の行動経路と戦死者の名前を記録した手書きの大きな地図を出していただきました。
全国キャラバンが始まる前に聞き取りに伺っており、「戦場体験史料館・電子版」に証言概要が掲載されていますので、併せてご覧ください。
「第4回 あの戦場体験を語り継ぐ集い」登壇者特集です。
第1部登壇順に、登壇者の方を紹介しつつ、日比谷証言集会を振り返ります。
登壇者16人目は、終戦後八路軍との戦闘で負傷、中島五郎さんです。

中島五郎さん

中島五郎さん

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中島五郎さん


1945(昭和20)年3月、高崎の東部38部隊に入隊
山東省諸城市の独立歩兵第63大隊で初年兵教育を受ける。40日間で教育は終了。擲弾筒分隊に配属され、第一線に出るようになる。
山東省は八路軍の進出がめざましく、夜襲を受けることが多かった。
近辺の村に八路軍討伐に出たが、いつもついさっきまで人のいたような気配があるのにもぬけの殻で、食糧になるものを持ち帰っていた。
5月から、山東半島の南岸で対米陣地構築の秀麗作戦に参加。小隊単位で標高500~600mの山頂で塹壕掘り。隣りの山の部隊が全滅したこともあった。
6月、甲種幹部候補生は青島教育隊に入る事になり、山を下りた。
8月20日に北京の予備士官学校に入隊する予定だったが、その前に終戦。
まったく負けた気もしないまま原隊復帰。蒋介石軍の指揮下で、武装したまま塔耳堡の駅で鉄道警備に就く。
12月8日夜半、衛兵指令として夜間巡察を終えて衛兵所へ戻ったとき、八路軍の夜襲が始まる。
応戦中、衛兵指令は本隊に連絡を取るよう命ぜられ、衛兵所の受話器を取った瞬間手榴弾が爆発。左腕と右足を負傷。
脱出する生き残りの隊員についていくことができず、這うように駅舎に入り隅にうずくまっているところに八路軍の兵隊が入ってきた。突きつけられた銃剣の先を払っているところに、八路軍の上官が入って来て、殺さず担架で運ぶように指示したので、そのまま近くの村の救護所に運ばれた。
その後野戦病院に移され手術を受けたが、足の負傷がもとで足の指が凍傷にかかっており、切断することになった。丁寧に麻酔をしての手術だった。
1946(昭和21)年3月、帰国の手続きをするということで安東に渡り、日僑民主連盟安東支部へ。受付業務を手伝いながら帰国を待ったが帰国船の手配が進まない。受付に帰国の相談に来ていた人たちは密航船で帰国を試みているという。
8月、結局密航船で仁川港に渡り、米占領軍の指示に従い、9月末、釜山から佐世保に渡ることが出来た。
10月8日、帰郷。

軍人になるために陸軍士官学校を受験しており、徴兵されて兵隊になった人たちとは違う思いを持たれていたようです。
日僑民主連盟にいた間に借りて読んだ本で、軍国教育でたたきこんだ歴史観が覆る経験をされたとのこと。
2004(平成16)年、塔耳堡の戦闘で亡くなった約40名の戦友の慰霊で現地へ。
そうしたつながりもあって、日中友好のための活動を続けられています。

日比谷証言集会では、八路軍との戦闘で負傷したときのことにかなり特化してお話しいただきました。
ジュネーブ条約にのっとった捕虜に対する待遇等、感謝の言葉でしめくくられました。
控室では、同じく中国で八路軍と戦闘をされていた本橋誠さんと並んで座っていらっしゃったようです。
「第4回 あの戦場体験を語り継ぐ集い」登壇者特集です。
第1部登壇順に、登壇者の方を紹介しつつ、日比谷証言集会を振り返ります。
登壇者15人目は、中国中南部を3千km行軍、藤原重人さんです。

藤原重人さん

藤原重人さん

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藤原重人さん

1944(昭和19)年9月1日、第27師団(極2906)第3連隊入営。最後の初年兵。
10月18日に九江到着。九江野戦補充教育隊で3ヶ月間初年兵教育を受ける。
1945(昭和20)年、初年兵教育の間に、2週間ほど、蒋介石の屋敷の警備にあたる。このとき、身の回りの世話などをする中国人がいて、仕事は楽だった。男性2人は「モモタロー」「ライオン」、女性2人は「花子」「梅子」と呼ばれていた。これは、ここに入る日本人の間で引き継がれていた。
2月16日、原隊追及の命令が下る。猛吹雪の中、行軍が始まった。それから7月までの間に九江から武昌、長沙、衝陽、楽昌までの約3千キロ歩く。常に食糧不足で、歩いている間に3分の1が脱落。
初年兵で先兵をやっているときに敵襲を受け、同年兵8名みんな死亡。服や靴は脱がされ、体中に棒が突っ込まれていた。大八車の陰に隠れて生き残り、それを引っ張って自分の部隊に戻った。
戦闘らしい戦闘はこの1回だけ。こちらが撃つと何倍も撃ち返されて勝負にならないので撃たないようにしていた。
途中の村で、食糧や人手を徴発。野良仕事をしている民間人を捕え、苦力(クーリー)として荷物を運搬させる。自分に同年代の苦力が2人ついたので、蒋介石の屋敷のときと同じように「モモタロー」「ライオン」と呼んだ。
戦況の悪化とともに重慶作戦が放棄され、本隊が解散。第131師団独立歩兵第596大隊に転属し、楽昌で警備につく。
7月からは、「粛清作戦」ということで、後退が始まる。
8月18日、後退の途中、終戦が口頭で伝えられた。
8月末頃、マラリアで倒れ、部隊に置いていかれるが、苦力の介抱のおかげで回復し、追いつくことができた。
10月15日頃 安慶捕虜集中営に収容される。収容した国民党軍が八路軍に対抗するためか、武装解除はされなかった。収容されていた間に、作業を手伝うようになった。
1946(昭和21)年3月21日 佐世保に復員。

珍しい体験や戦闘体験もありますが、持ち時間が少ないとテーマを絞らなければならないのをよくご存じで、当日のお話は、主に行軍と徴発のこと。
日比谷証言集会には第2回にも登壇され、やはり徴発のことを中心に証言されていました。
実行委員会にも何度か来ていただいており、本番2週間前のリハーサルに参加されました。当日まで、原稿に手を入れていらっしゃったようです。
百人展は皆勤賞(全会場参加)、キャラバンにもスタッフ側で参加してくださったこともあり、いてくださると安心感が違います。むしろ、半分スタッフとして壇上にいていただいたようなかんじです。
8月15日の朝日新聞に登場されました。広報にもひと役買っていただいた面があります。
無茶なお願いをしても、いつも「いいよいいよ」と引き受けてくださるもので、遠慮なく乗っかってしまっていまい、いつもお世話になっています。
戦時中の品は、ご実家を引き払うときになくしてしまわれたそうで、「これだけなんだよね」とおっしゃる行軍の道筋を描かれたお手製の中国地図を専用の筒(これもお手製で、指し棒までしこんであります)で携えて、保存の会の行くところ全国にご登場くださっています。

「戦場体験史料館・電子版」に、藤原さんの証言概要が掲載されている他、保存の会公式twitterでも紹介しています。
「第4回 あの戦場体験を語り継ぐ集い」登壇者特集です。
第1部登壇順に、登壇者の方を紹介しつつ、日比谷証言集会を振り返ります。
登壇者14人目は、国民学校のときに沖縄戦を体験、大嶺初子さんです。

大嶺初子さん

大嶺初子さん

スクリーンの画像です。
大嶺初子さん

1944(昭和19)年、国民学校4年生になったころ、沖縄守備隊第32軍創設。沖縄に、軍隊がやってきました。
各家庭の一番いい部屋には、兵隊が寝泊まりするようになります。最初は第9師団がいました。この部隊とはわりと交流があり、子供達は一緒に遊んでもらったりしていたそうです。国民学校の生徒も、一緒に壕掘り等していました。
10月10日、初めての大空襲。最初は友軍機がすごい演習をしていると思っていたら、星のマークが見えて敵機とわかり騒然。那覇のほうが燃えているのが見えました。いわゆる10・10空襲でした。
大嶺さんのご実家は今の県平和祈念公園に近い辺りだったので、この空襲そのもので大きな被害は受けませんでした。
第9師団の台湾抽出に伴って、第32軍では次々と配置換えが行われ、その結果各地域、家庭に入る部隊も変わることになります。第9師団の後に、独立混成第44旅団、それからさらに第24師団が入ってきますが、もうあまり兵隊と交流することもなくなります。
1945(昭和20)年4月、国民学校5年生になるころには、南部のほうも空襲や艦砲射撃を受けるようになってきました。
それで、家を出て、防空壕や墓を点々と逃げ回るようになりました。
最初入っていた亀甲墓を日本軍に明け渡すことになりますが、日本兵との関係が希薄になっていたのも影響していたかもしれません。
次に、畳3畳ほどのお墓に移りました。家族7人と学校の校長先生夫妻がぎゅうぎゅうで入っていました。そこへ県の病院に勤務していた姉が友達3人と一緒に帰ってきますが、入る事ができず去って行き、その後戦死。去って行くとき、持っていた手榴弾の1つを父に渡しました。
首里城も陥落した6月、南部が主戦場となり、米軍の姿も見えるようになってきたので、さらに南へ逃げることになります。首里方面から逃げて来た人も地元の人も一緒くたに逃げ回る混乱状態、いたるところで人が死んでいるような惨状の中で逃げ回りました。
6月7日、沖縄本島最南端の喜屋武岬に来て、近くにあった水タンクの中で一夜を明かし、もう逃げられないからここで死のう、と父が手榴弾の信管を抜いたところで米兵に発見され、収容されました。

当日は、沖縄県からのご参加です。
原稿を見ると、4分の持ち時間、1000文字の中に、沖縄戦の初めから終わりまでを詰め込んでこられていてびっくりしたのですが。
前の人が証言しているのを見ているうちはそんなに緊張もしていなかったのに、壇上に立った瞬間頭の中が真っ白になってしまって混乱されたということで、2倍近い時間かけての証言となりました。
沖縄は特に基地問題等で相当注目されている時でもあり、言うべきと思ったことは全部言う、という気持ちになっていらっしゃったようにも見えました。
結果熱弁となり、NHKニュースに全国版で登場、沖縄に戻るといろいろな人から「見たよ」と言われたそうです。
登壇がきっかけで、都内の学校から修学旅行のときの講師を頼まれることになりました。これについては、実は後日談がありますが、それはまたの機会に。

沖縄キャラバンの時には、体験者の方の紹介から当日の送迎まで、いろいろと助けてくださっています。
退職教職員会でも世話役のような立場でいらっしゃるようで、まだまだ私たちの知らないネットワークをお持ちだと思われます。
ブログ係が沖縄キャラバンで最初にお話を伺ったのが大嶺先生でした。というわけで、保存の会公式twitterにつぶやきがあります。
ご自身は語り部というかんじではなく、もっぱら語り部の方のサポートをしていらっしゃるようですが、日比谷をきっかけに講演も増えるのかもしれません。
「第4回 あの戦場体験を語り継ぐ集い」登壇者特集です。
第1部登壇順に、登壇者の方を紹介しつつ、日比谷証言集会を振り返ります。
登壇者13人目は、特攻基地に向かう途中終戦、信太正道さんです。

信太正道さん

信太正道さん

スクリーンの画像です。
信太正道さん 信太正道さん ご家族と


1942(昭和17)年、海軍兵学校に入学。(第74期)
1945(昭和20)年3月、海軍兵学校卒業。最後の卒業生。
同期の1000人のうち、特に優秀な50名は戦艦大和に配属される。
7月、海軍少尉に任官。翌日神風の指命式が行なわれ、200名のうち36人が選ばれ、「神風特別攻撃隊古鷹隊」が編成される。信太さんもその1人です。
さらに翌日、たまたま面会に来た両親に会い、特攻隊に選ばれたことを告げると、父は「そうか」とだけ答え、母は「断ることはできないの?」と泣き崩れた。
2週間にわたる体当たり訓練をする日々の中で、繰り返し悪夢を見る。
8月12日、遺書を書かされ、お国の為に死ぬということを書くが、本心ではなかった。
訓練地の千歳から出撃基地の茨城県百里原基地へ向かう途中、仙台駅前で玉音放送を聞き、敗戦を知る。
みんな悲しそうにしつつも、安心していた。
9月に復員すると、母は「生きている!」と泣いて喜んだ。

戦後は、京都大学経済学部卒業後、海上保安庁、海上警備隊、航空自衛隊をへて、1958年、日本航空入社し、1963年から1986年の退職まで機長を務められたということです。海軍少尉となっていたため、国家公務員上級試験に合格するも公職追放でご苦労されながら、仕事をされていたとのこと。
海上保安庁の掃海部として朝鮮戦争で掃海に出たり、日航の機長時代にベトナム戦争に向かう米軍機とニアミスしたりと、戦争を近くに感じることがたびたびあったようです。
そうした経験から、「戦争屋にだまされない厭戦庶民の会」を立ち上げられ、特に神奈川県では有名人でいらっしゃるようです。

保存の会とは、普段は特に接触はないようで、今回登壇されることになったのは「意外」だとみんな言っていました。私もお会いしたのは初めてだと思います。(もしかしたら、私が保存の会に参加し始めたころ交歓会の受付でお会いしていることはあるのかもしれませんが)
そういうわけで、今回もネット上からプロフィールを探しました。
日比谷証言集会当日のお話は、特攻隊に指名されてから訓練中の悪夢のこと。だいぶピンポイントで原稿をご用意されていました。
その分、写真にもありますが、壇上で、ちゃっかりご自身の著書の宣伝をされていました。
戦後のお話もだいぶ濃厚そうですし、詳しく知りたいという方は、著書を探してみられることをお勧めします。