あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
第3回沖縄キャラバンが7月1日(土)に伺った証言の概要です。
本島にいた2班による聞き取りでした。メーリングリストより転載します。


◎玉城敏雄さん(81)
昭和六年生まれ
取材日:平成二十四年七月一日
所属:第百三海軍施設部中村隊
種別:海軍軍属(工員)
戦地:ミンダナオ島
――――――――――――

○昭和六年二月十九日、ミンダナオ島ダバオ生まれ。

・実家は麻農家。
・当時は銀行がなかったのでお金は地中に埋めていた。
・ダバオは日本人が多く、日本人学校もあった。
・ほとんどが沖縄出身。
・ビサヤ、タガログ、英語、子供の時分は覚えてしまう。
・父親はフィリピン人従業員を五十人くらい雇っていた。従業員の為にバラックを作り住まわせて、「アモ」と呼ばれて信頼されていた。
・賃金のいざこざで従業員に殺される日本人もいた。

○昭和十一ごろ年(?)、カテガン尋常小学校入学。

・クラスは学年に一つずつ。高等一年の時は男の子が九名、女の子が七、八名だった。

○昭和十六年十二月八日、大東亜戦争開戦。

・収容所に入れられるということもなく平和だった。

○昭和十八年ごろ(?)、ダリオン国民学校高等科入学。

・カテガンは田舎だったので学校に高等科がなかったので、ダリオンの国民学校へ行った。

○昭和十九年二月か三月、海軍軍属に志願。第百三海軍施設部へ。

・実際は強制徴用だった。
・当時は天皇陛下のために死ぬという気持ち。死ぬのは怖くなかった。
・海軍施設部以外に軍需部、陸軍、航空廠などからも募集があり、先生が配属場所を決めていた。
・施設部は最初ダバオにあったが、戦況が悪くなってリバーサイドのチーク場に移動していた。
・自動車部に配属。中村隊長は兵隊から叩き上げの大尉だった。
・十五歳だったが、体が大きかったので自動車の運転をすることになった。
・日本のトラックと分捕り品のインター【※おそらくInternational】で、あちこちに糧秣を運んでいた。
・日本の兵隊の中には、フィリピン人の若い女性を強姦した後、井戸に投げ込んで殺す者がいた。戦争だから仕方がないとはいえ、フィリピン生まれで、みんな一緒に生活した仲なので、かわいそうだった。日本のやり方はひどいと思った。
・他の部署には朝鮮人や台湾人の軍属もいて、ちょっとでも怠けるとバッターで殴かれていた。子供ながらに見ていてつらかった。一度殴られて死ぬ人を見た。
・タバコや酒を飲んでいるのを見つかると、すぐに殴られた。
・給料は一切なかった。

○昭和二十年三月以降(?)、艦砲射撃が飛んでくるのでジャングルに逃げることに。

・バンケーロという川【※ダバオ川?】が流れていて、その上流を渡ってジャングルにに入った。
・トラックは放棄した。
・ジャングルにあるバラックで生活。九名だった。
・”アーター”という部族が住んでいた。基本的に部族民は裸。あちこちに芋や陸稲を作って自給自足の生活をしていた。
・日本人とフィリピン人の混血の兵が通訳をしてくれた。
・部族民の村では、持って来た岩塩と物々交換で豚も猪も米も手に入れることができた。
・岩塩は貴重品で担いで山にもっていた。ちょっぴりでも交換すると鶏を二、三羽くれた。
・二ヶ月くらい暮らして、部族民となかよくなり、酋長とも友達みたいになった。
・酋長の家のまわりには二十個程骸骨が飾ってあった。
・ある日、台湾人軍属の炊事係が一人で物々交換に行ったが、帰って来なかった。村に行って見ると、部族民はごちそうを作ってどんちゃん騒ぎをしていて、木には軍属の首が吊ってあった。最初は豚の肉を食べていると思っていたが、彼らが人食い人種だということが判明。
・酋長の家の骸骨は、戦争が始まった当初、山へ逃げたフィリピン人だったらしい。
・それから、もし抵抗した場合は撃ち殺すぞと脅すため、部族民に銃を見せつけるようになった。
・ジャングルには米軍もゲリラもこなかった。米軍よりも人食い人種が怖かった。
・陸軍の兵隊は飯盒に持っている食糧しかないのでバタバタ倒れていた。水やかんめんぽうをあげると、「もうこれで思い残すことはない」と言って亡くなった方もいた。
・陸軍のかんめんぽうと海軍のかんめんぽうは違う。海軍のものは缶に入っていて大きかった。
・ジャングルの中で二人がマラリアで亡くなった。マラリアは大変な病気でどんなに毛布をかけてもガタガタ震えていた。かわいそうだがジャングルに埋葬していた。
・幸いにも赤痢にもマラリアにもかからなかった。
・落ちて来たビラを見た隊長の指示で投降することに。
・この時でも日本は勝っていると思っていた。

○昭和二十年八月十五日以降、米軍に投降。

・はじめて米兵の顔を見た。
・GMCの大きなトラックに乗せられて収容所へ。
・背中に大きく「PW」と書かれた。
・一番最後の投降だった。
・収容所で家族と再会。みんな普通の生活をしていた。
・「高砂丸」に乗船。兵隊も民間人も一緒で、台湾人や朝鮮人も乗っていた。
・朝鮮人や台湾人に悪いことをした軍曹や伍長が、彼らに甲板に連れて行かれて、船から海に投げ込まれていた。
・呉に上陸。沖縄県出身者は福岡へ。
・半年くらいしてLSTに乗船。

○昭和二十一年(?)、沖縄上陸。
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2012/07/08(日) 06:18:06 | まとめwoネタ速neo