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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
2012年2月に行った沖縄キャラバン2012で、2月5日(日)に伺った証言の概要です。
第3回沖縄キャラバン前に、今回も行くメンバーがレポートを上げていました。メーリングリストより転載します。

◎東恩納寛文さん(85)
取材日:平成二十四年二月五日
昭和二年生まれ
所属:第二護郷隊第一中隊指揮班
戦地:沖縄県北部
――――――――――――

○昭和二年、沖縄県生まれ。

・漢口攻略戦の際に父親が戦死。小学生の時に遺児の代表として靖国神社に行った。
・小学校卒業後、青年学校に。
・伊江島の飛行場建設に動員される。
・大きな壕に寝泊まりしていた。
・伊江島はハブが多かった。

○昭和十九年十月十日(?)朝八時ごろ、滑走路で作業をしていると、読谷の飛行場の近くで大きな火事が起きているのが見えた。「なんだろう、不思議だなあ」と思っていると、一分くらいして伊江島の上空に米軍機がやってきて攻撃を始めた。

○昭和二十年はじめごろ、軍から召集令状が届いた。

・赤い紙で、青年団は全員名護に集合とのことだった。
・それから名護の小学校で毎日訓練。北部病院が演習地だった。
・爆薬を抱いて戦車を攻撃する訓練などを行った。
・一中隊は国頭出身者、二中隊が大宜見出身者、三中隊が東村出身者で構成されていた。
・隊長は二十三、四歳のバリバリで元気があった。
・隊長以外は十八、十九の青年。
・中隊の指揮班長になった。

○昭和二十年四月一日、米軍沖縄本島上陸。

・そろそろきたか、やらなくちゃいけないなあと死を覚悟した。
・護郷隊は恩納岳に陣地を作った。
・食糧なんかも持って行っていた。
・日にちはもうわからないが、陣地に配置されてみるとすでに米軍が恩納岳に来ていた。
・昼間は動けない。夜に飯を炊いた。水は川か滝壺から汲む。
・出て行ったらやられる。絶対相手に姿を見せないようにしていた。
・何回も射ち合った。
・射ち合っている時は無我夢中。弾が当たっているかはわからない。
・よく米兵が負傷者を引っ張って行くのが見えた。
・毎日戦車砲をうちこまれた。
・陣地の真中に戦車砲が落ちてきて、初めて戦友が死ぬのを見た。「アンマー、アンマー(おかあさん、おかあさん)」と言って死んだ。
・戦死者は埋葬していた。戦後御骨をとってきたかはわからない。

○恩納岳にいたある日、解散命令が出された。

・各自が出身部落へ戻ることになった。
・軍服や青年服を着ていると間違われるので、私服に着替えて鉄砲も捨てた。自決用の手榴弾だけ持っていた。
・川を渡るときは、持っていた竹で息をしながら渡った。
・米兵が落として行った缶詰を食べていた。
・部落に戻ってからが大変だった。
・家も畑も全て焼かれていた。
・焼跡を見ていると、小学校の前にあった大きなガジュマルの木が残っていた。爆弾で大きな穴があいていたが、懐かしくなった。
・生き残った住民は山の中の避難小屋からでてこようとしない。「みなさん出て来ないと餓死しますよ」と説得しに行った。なんとか出て来させて隣の部落に避難させた。
・部落から護郷隊に行ったのは六人。みんな生きて帰って来た。
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2012/06/22(金) 07:29:47 | まとめwoネタ速neo