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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
沖縄キャラバン2012が2月9日(木)に伺った証言の概要です。
1人だけ残っていたメンバーの最終日の聞き取りとなります。

◎仲里ユキさん(85)
取材日:平成二十四年二月九日
大正十五年生まれ
所属:野戦重砲兵第七連隊医務室(球4152)
戦地:沖縄南部
――――――――――――――

○大正十五年八月十日沖縄県生まれ

・家は農家。
・父親は那覇でポンポン船に乗っていて、母親も那覇で魚を売っていた。

○昭和十九年十月十日、十・十空襲。

・グラマンが来ても「まさか」という感じでみんな逃げようとしなかった。機銃掃射されてはじめて敵機だと分かって壕に逃げた。
・母親はびっくりして、着の身着のままで那覇から地元の壕まで来た。
・この後から陣地構築の壕堀作業に動員された。
・作業をしているうちに首里から来た人に呼ばれて、「あんたたち、いよいよ戦争はもう間近になっているけれど、球四一五二部隊で働いてくれないか。戦争が激しくなっても家族の面倒は見てあげるよ」と言われた。親に相談すると、「自分で決めなさい」ということだったので、働くことにした。
・あの頃は死ぬことが当たり前で恐くなかった。

○昭和十九年末、野戦重砲兵第七連隊(球4152)医務室勤務に。

・大里に陣地があった。
・民間と軍隊では医療器具の名前が違うので、一からそれを勉強した。
・初めの頃は、作業で怪我をした兵隊を軍医が治療するのを見ていた。見ているだけでも体が震えた。治療が終わると軍医に「この馬鹿野郎。このぐらいの傷で震えていて、戦争になったらどうするんだ!」とさんざん怒られた。
・毎朝朝礼で「海ゆかば」を歌っていた。
・部隊長は樋口中佐。医務室には、玉井軍医、江藤准尉ら十七名くらいいた。

○昭和二十年一月末、部隊に初年兵が入隊。

・空襲があるので壕の中で入隊式。

○昭和二十年四月一日、米軍上陸。

・重砲隊も攻撃していたが、おつりが何千発も来る。攻撃する時は外に出ないようにと命令された。

○昭和二十年五月二十六日、米軍が運玉森を攻撃しているのが見えた。

・部隊長が「今日は空襲の恐れがあるから絶対外には出ないようにしなさい」と命令した。トイレにいく以外は壕の中でちじこまっていた。
・となりにいたお姉さんが時計を見ていた。三時十五分、爆弾が落ちてきた。ちょうど仲間の仲里ひろこさんがトイレに行っていて、入り口に着いた時に爆風で壕の中に吹き飛ばされた。軽傷ですんだが、寝ていた負傷兵が二人、落ちてきた岩につぶされて即死。
・軍医が「飛行機が緩和になったら脱出しよう」と言っていうことになって脱出することになった。
・脱出する時にまた飛行機がやってきた。隣にいた尾崎隊の兵隊がやられていて、うーんうーん唸っていた。持っていた救急袋で手当てをしてあげた。
・兵器隊の壕に移動して一月くらい世話になった。
・このころから負傷兵が増え始めた。
・空襲で外にはでれないからみんな寝転がっていた。
・入口から離れていたところに寝ていた北海道の兵隊さんの頭に、運が悪く破片が直撃して、寝たまま逝ってしまったことがあった。
・顔をやられて、目も鼻もなくなってしまった人がいた。薬を運んできた人が明るい所でその人をみてびっくりしていた。
・重傷患者のおかゆをたかなけれなばらないが、みんな外に出るのを嫌がった。しかたがないので自分が重機分隊の七輪をつかって炊きに行った。炊き終わるころに、艦砲が落ちて、背中に衝撃を受けた。破片が直撃していると思って、「背中をやられた」と、壕に飛び込んだが、傷一つなかった。おかしいねえと思った。おかゆはダメになってしまった。
・艦砲のヒューという音は遠い。シュッという音は近い。間近におちるといきなりバンとくる。
・治療は夜にしていた。
・重傷患者は南風原の陸軍病院に連れていくことになっていたが、連れていく担架兵もやられる可能性があるので大変だった。
・食事は二食で砂や泥の入ったご飯や乾パンを食べていた。動かないので二食で十分。飢えることはなかった。
・部隊長が医務室は二つに分かれてどこどこに出発するように命令して、佐敷町(※現南城市)の二中隊の壕に移動することになった。
・夜中ずっと歩いた。
・佐敷に着いて四、五日すると、敵は佐敷まできているというので、知念岬の三中隊の壕に移動することになった。
・ここでは弾はあまりこなかった。朝起きるとひさしぶりに外に出て、深呼吸をして「あー、よかったねえ」と思った。
・再び 敵が来ているということで、夜に何十メートルもある絶壁を通って、海岸に下りた。下りたら照明弾でボンボン照らされてまったく歩けなかった。新原の海岸には避難民がたくさん集まっていた。
・本隊のいる具志頭村に向かうことになった。そこに行くためには敵中を突破しなければならなかった。
・そのころは毎日のように雨が降って、河も増水して渡るのが大変だった。志堅原に着くと村の人が案内すると言ってくれた。下流の方は渡れないから、上流の方で渡ることになった。

○昭和二十年六月九日ごろ、具志頭へ出発。

・出発前に准尉に「昼寝をしなさい」と言われて、同郷の瀬底シズさんとお互いに腕枕をして寝ていた。そのためか二人とも同じ気持ちになっていて、同じ言葉がすぐに出た。万一どちらかが生き残った場合には、親兄弟に国のために一生懸命つくして死んでいったことを伝えるようにと二人の中で一致した。
・後ろからは米軍の曳光弾がプシュープシューと飛んでくる。米軍が来ているのが分かっていたが、どうしようもない。兵隊さんが先に渡って銃を出して、それに捕まって渡った。
・渡り終わったところでものすごい攻撃にあった。手榴弾とかいろんなものが投げ込まれ、シズさんが「あーっ!」と大きい声を上げて倒れた。背中をやられていて、そのまま息を引き取った。
・体を出来るだけ縮めてじっとしていると、徐々に弾が遠のいてきて、夜が明け始めた。
・隣にいた仲間のたまよしキヨさんがキョロキョロしている。手も足もやられていて、青くなっていた。「じゃあね。シズさんと一緒に逝こうね」と言って、自決用の消毒剤を飲むことにした。自分はすぐに取り出せたが、たまよしさんは怪我をしているのでの取り出せない。そうこうしているうちに、シズさんと決めたことを思い出して飲むのをやめた。
・部隊が目の前だから、昼は死んだふりをして夜になったら逃げようと話していると、米軍が声を機械で探知したのか弾が飛んできて背中に当たった。火傷したような感覚で、血が流れていると思った。死ぬ前に傷口をさわってみようと手を当てたら、肌着まで破けていたが傷がなかった。「あれ、私生きてる」。そのまま仰向けになっていると、五メートルくらいはなれた所で「かあーちゃーん!」という声がした。銃剣の音もしたので、突撃に行く元気な患者がいるのかと思って見ると、初年兵の患者が銃剣で自分の首を切ろうとしていた。「あ、ちょっと待って下さい。そんなことしないで、私と一緒に死んだふりして逃げましょう」と言ったけれど、初年兵は首を振った。その直後にまた弾が飛んできて、止んでから初年兵を見ると、頭が半分なくなっていた。
・後に、江藤准尉ともう二人が部隊にたどり着いて、泣きそうな顔でみんなやられたと報告したと聞いた。
・夜が明けると米兵がベラベラしゃべっている。周りを囲まれていた。一人でも殺してやろうと、持っていた手榴弾を投げようとした時に、うしろから米兵がきて図嚢のベルトを切って中身を持って行ってしまった。
・米兵は河原の木を切って毛布をかけて担架を作った。それにたまよしさんを乗せて、自分は歩いて第二線に連れていかれた。
・そこで所属部隊など米兵にいろいろ聞かれた。部隊を言ったら国賊になると思い、たまよしさんと二人で相談して、「死んでも部隊名は言ってはいけないよ。あくまで住民だよ」と決めた。
・米兵に「私達をどこにつれていきますか」と聞いたら、「第三線につれていく」と言われて、やってきたジープにのせられた。着いたところは今の琉球ゴルフ場の向かい側だった。
・たくさんテントが張られていて、たまよしさんは治療を受けて、自分は将校にかこまれて二世の尋問を受けた。兵隊の半袖を着ていたので、これは拾ったものだと言い張った。
それから、「住民のいる所に連れていく」と言われて大きなダンプに乗せられた。住民と認められたと思った。
・ダンプは佐敷町の屋比久の村に着いた。病院も憲兵隊本部もあって、住民もたくさんいた。
・ここで「病人の治療をしなさい」と言われた。怪我をした住民が大勢いて手当てした。
・あまりにも患者が多いので、お昼を食べたら休みもせずにすぐ治療していた。
・右腕が破片創の人がいた。傷口は黒ずんでいて、中から大きいウジ虫が湧いていた。とってもとっても翌日にはまた湧いていた。その人は医者に「あんたは破傷風だから。腕を切りおとすよ。明日準備するように」と言われて、「右手がなくなるんだったら死ぬ方がいい」と自分に相談に来た。「黒い肉を切って、赤い肉が見えないとどうしようもないよ」と言うと、「じゃあ、あんたお願いします」と頼まれた。命をかけているからやったこともないけどやることにした。ちょこちょこはさみで切って、消毒してガーゼを詰め込んだ。終わると、「ありがとう」とごちそうをたくさん持ってきてくれた。その後、切り落とすこともなく治ってしまったらしい。本当はやりたくなかった。
・破傷風で死ぬ人がたくさんいて、大きな穴に死体をなげ込んでいた。
・治療できることを米軍に怪しまれて、「ほんとにあなたは住民なのか」と何回も聞かれたが、「関係ない」の一点張り。名前も隠していたが、収容所には親戚や知り合いもいて、「ユキ」「ユキちゃん」と呼ばれて本名はばれていた。
・収容所の近くに親戚が住んでいて、夜に何度か泊まりに行った。米兵は収容所にいないことがわかると、夜通し収容所を探しまわっていたらしい。帰ってきたら「夜も眠れないから。あんたどこにもいきなさんな」と収容所のおばさんに言われた。それからは外に行かなくなった。本当は逃げるつもりだった。
・米兵がテントに黒人を呼んできたことがあった。黒いといっても沖縄の自分たちみたいな黒さだろうと思っていたので、テントに黒人が入って来ると驚いて「助けてくれー!」と大声で叫んでしまった。周りのテントの住民も大騒ぎになった。あの時は本当にびっくりした。
・家族が漢那(※現宜野湾市)にいることが分かったので、北部に移動した。名護の親戚宅に四、五日いてから漢那に向かった。正確な居場所はわからないので聞いて尋ね歩くつもりだった。
・漢那につくと長屋がたくさんあったが、ちょうど水場に行く姉に会った。「あれ、ユキが来てる」と大騒ぎになり、苦労しないで親に会うことが出来た。
・着いたら安心してしまったのか、マラリアで寝込んでしまって二週間くらい大変だった。
・ここからまた南部に移動して、床もない家で蚊帳を敷いて寝ていた。土人みたいな生活で、みじめさを感じた。
・しばらくして故郷に戻って畑仕事をしていた。海岸に米軍の小さい船から大きい船が台風でたくさん打ち寄せられてきて、残っていた食糧や道具を皆で分け合った。
・九人いた家族は南方に行った兄弟も含めて不思議と皆無事だった。
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2012/05/30(水) 11:49:43 | まとめwoネタ速neo