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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
2011年12月に土日を使って行われた茨城キャラバンで、12月10日(土)に伺った証言の概要です。
ゴールデンウイーク中にメーリングリストに上がってきていましたので転載します。

◎大野清さん(86)
取材日:平成二十三年十二月十日
大正十四年生まれ
所属:鉄道第四連隊(路34102/満州668)第一大隊第一中隊
兵科:工兵(鉄道兵)
戦地:満州(牡丹江)~シベリア(ハバロフスク地方テルマ地区)
――――――――――

○大正十四年、茨城県生まれ。

・実家は農家。

○昭和十六年十二月、今の取手一高を繰り上げ卒業。

・105人中76番目の成績。
・勤労奉仕で農家の手伝いに行っていた。食糧をもらえるので勉強もしないで手伝いばかりやっていた。
・卒業後は省線電車の松戸電車区に勤める。
・当時の鉄道省職員は召集されてもその間の給料が支払われることになっていて、現役兵でも休職扱いになって復職することが出来た。そういう恩典があったので就職した。
・電車の運転士になる。最初の半年は車庫で電車の分解、次の半年は教習所で勉強。それから一年は見習運転で十万キロ乗らないと運転士の資格をもらえなかった。
・常磐線の上野~松戸間に常務。
・車掌はみんな女性。空襲があると臨時停車して線路わきの防空壕に退避していた。

○昭和二十年三月八日か九日、召集令状が来た。

・大阪の小学校に集合。二百人くらい集まって、軍服を支給された。
・物資はなんにもない。水筒は竹だった。
・連絡船で釜山に上陸して鉄道で満州へ。

○昭和二十年三月十三日、牡丹江到着。鉄道第四連隊第一大隊第一中隊に入隊。

・すぐに使えるようにと、内地で鉄道に関わっていた人が集められていた。自分は電車の運転士だったので何もできなかったが、機関車に関わっていた人は満鉄の機関車を動かしていた。
・隊内の私的制裁がすごかった。
・初年兵が整列させられてお互いに殴り合わさせられる。
・殴られて口の中が切れてしびれてご飯が食べれなくなった。
・顔にあざが出来て小隊長に何事か聞かれても、「階段で転んでぶつけました」と答えていた。殴られたなんて言えなかった。

○昭和二十年七月、満州全土で根こそぎ動員。

○昭和二十年八月九日、ソ連満州に侵攻。

・鉄道隊なので貨車で逃げるだけ。

○昭和二十年八月十五日、横道河子(※牡丹江北西約40キロ)で終戦。

・「あ~これで死ななくてすむな」、と思った。
・ここから歩いて牡丹江へ戻った。
・ロシア兵に「ダワイ、ダワイ」と銃を突きつけられて、腕時計や万年筆をとられた。
・開拓団とか一般居留民は烏合の衆でほんとうにかわいそうだった。
・日本に帰るんだということで、貨車に載せられる。
・一週間、十日たっても港に行かない。
・途中イルクーツクで海が見えたかと思ったら湖だった。

○昭和二十年九月、ハバロフスク地方テルマの収容所に到着。

・第二シベリア鉄道の路盤建設にあたる。
・満州からレール、犬釘、人間まで持ってきて建設した。枕木は現地の木を切って製材していた。
・食糧がない。塩水に大豆のつぶが二つか三つ入っていればいい方。惜しくて噛んで飲みこめなかった。
・服は夏服だったので、寒さでバタバタ死んだ。
・死んでもかまってられない。死体は山へ放り込んで雪をかけるだけ。誰がいつどこでどんなふうに死んだかは情報がまったくない。犬猫捨てるのと同じ。日本に持って帰ってきた死亡者名簿は作文。
・一カ月に一回くらいロシアの軍医が体力を検査する。お尻の肉をつまんでを一級、二級にわけられる。
・一級になるときついけれど、ノルマをこなすと報酬も多かった。
・黒パンはしぶいような味。だけど腹が減っているからうまかった。戦後シベリアへ墓参に行った時に現地で作ってもらって食べたが、食えたものじゃないと思った。
・自分達は初年兵だったので、古参兵に食糧を取られたり殴られる。そういう権力をなくすために民主化運動がおきて、そのリーダーになった。
・山田清三郎といった人が講師になって勉強することもあった。
・民主化運動は政治運動ではなく、軍隊組織をなくすための運動だと思っている。
・収容所には三波春夫もいて、軍国主義者ということでソ連に逮捕されたことあったが、高山さんという人が浪曲は日本の伝統的な芸術一つで軍国主義的なものではないと説明して解放された。
・一カ月も二カ月も風呂に入らないので、しらみがびっしり。服の縫い目に卵があるので、昼間はつぶしていた。
・シラミが湧くと発疹チフスが発生する。四十度ぐらいの高熱になる。
・自分もチフスに罹って入院することになった。移動の時に、二十五人がトラックに乗せられた。戦後生き残ったのは五人だけだった。
・小学校が病院になっていて、日本人の軍医とロシア人のカピタンの女将校がいた。
・入院してそのまま病院で働くことになった。病院はわりと給与が良く、だから助かったんだと思う。
・毎日五、六人ずつ亡くなる。
・零下40、50度で死体は一晩かちんかちんになる。宗教上の問題なのか服は脱がせてしまう。霊安室が死体でいっぱいになると立たせていた。マネキンみたいだった。
・霊安室が満杯になると裏山に捨てた。永久凍土で冬は埋められない。放り投げると、凍っているので死体の指がとれてしまった。
・春になると雪が解けて、オオカミが死体を食い散らかす。しょうがないからつるはしで掘って埋めた。
・墓標もなにもなかった。病院では全部で八百人くらい亡くなった。
・二年くらいが栄養失調で大変だった。それからは回復していった。着る物もロシアの綿入れの服になった。
・性欲もでてきて、元気な人は収容所の周りにいるロシア人の後家さんと仲良くなっていた。

○昭和二十四年、ナホトカに到着。高砂丸に乗船。

・テルマでも一番遅いほうだった。
・これで帰れると思った。

○昭和二十四年八月、舞鶴着。【※八月二日?】

・臨時列車に乗って品川に着いた時、後ろから親戚の男たちが六、七人来て、手を捕まえられた。なにかと思ったら、共産党に入られたらしょうがないから連れに来たということだった。あのころはシベリアから帰って来た人が代々木の共産党本部に集団入党していた。
・家に帰ると母親が出てきて、「おめえ良く生きて帰って来たなあ。あんちゃん死んじゃったよ」と言われて手を握られた。その時の手の感触を今でも覚えている。
・兄はニューギニアで行方不明になっていた。
・帰って来ると村の人達が話をしてくれない。アカだと思われていた。戦後はがんばって村のために尽くして、市議会議員にトップ当選した。

●終戦時、陸軍二等兵。
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2012/05/22(火) 02:05:26 | まとめwoネタ速neo