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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
ゴールデンウイークの群馬・栃木キャラバンが5月5日(土・祝)に伺った証言の概要です。
この旅の最後の聞き取りです。
メーリングリストより転載します。

◎金澤彰三さん(91)
取材日:平成二十四年五月五日
大正九年生まれ
所属:歩兵第八十七連隊(満州第八五三部隊)通信中隊~第一挺身集団第二挺身団(高千穂部隊)司令部(威19040)通信隊無線中隊
兵科:歩兵(通信兵・空挺兵)
戦地:満州(春化)~フィリピン(ルソン島)
――――――――――――――――――

○大正九年十一月十五日、群馬県生まれ。

・実家は農家。
・スポーツ少年で、暗くなるまで鉄棒、テニス、バスケット、なんでもやった。
・サーカス団が町にやって来たことがあって、父親に将来サーカス団に入りたいと話したところ、「サーカス団は金に困った人が子供をあずけるところだから、お前の行くところじゃない」と言われた。その後ブランコに乗って曲芸の真似をしていたら、頭から落ちて脳震盪を起こした。
・おっかなくてもスリルのあることが好きだった。

○小学校卒業後、講談社に就職。

・はじめは商品部、次に婦人倶楽部の編集などいろいろやった。
・住み込みで働いていたので給料はあまり多く貰っていなかったが、普通の社員でも月給五十円くらいで良いとはいえない。東大を出た社員が「大学を出て俺は給料これっきり。三菱に行った友達はもっともらってる」。「じゃあそっち行ったらいいじゃねえか」と言うと、「そうもいかない」。やっぱり講談社には魅力があった。
・学校を出ていなくても偉くなれるようにとこき使われたが、今考えればいい教育だった。辞書を持ち歩いて、隣の人が難しいことを話すとすぐ調べるくらいだった。ここで鍛えられた。

○昭和十五年、徴兵検査。

・第二乙で甲種合格に編入。
・八歳の時、兄が徴兵検査を受けて、「あそこの家の誰々君は甲種合格を言い渡されて、震えて靴ひもが結べなかった」と言っていた。その時はずいぶん感激したんだなあと思っていたが、大きくなってから兵隊に行くのが嫌だったからということが分かった。自分達は甲種合格になるのが名誉なことだったのに感覚が全然違った。

○昭和十六年二月二十日ごろ、高崎連隊へ集合。

・新潟から輸送船に乗船。東満・春化(※現吉林省)へ。

○昭和十六年三月一日、歩兵第八十七連隊(満州第八五三部隊)通信中隊入営。

・春化には部落が何軒かあるだけで何もない。山を登ればウラジオストックが見えた。教育は琿春にある師団司令部の通信講堂で行われた。
・無線通信士として訓練を受ける。モールス信号や無線機の操作、電磁学、電気学、無線学を勉強・学校を出た中尉か少尉の偉い人が教官。
学科ばっかりで、学校に行くのと変わらない。新しいことだから面白かった。
・初年兵だけで古参兵がいないので楽だった。私的制裁もない。
・送受信は出来るようになった。

○昭和十六年六月二十二日、独ソ戦始まる。このため原隊復帰。

○昭和十六年七月、関東軍特殊演習。

・どんどんどんどん弾薬や物資が輸送されてきた。
・壕を掘り、真新しい服と装備を貰って、すぐにも戦争に行けるような体制だったが、いつまでたっても命令が来なかった。
・「防疫給水隊」という聞きなれない部隊がやってきた。飲み水をろ過するのはいいが、その中に「散毒隊」というものがあるという噂を聞いた。条約で毒をまくことは禁止されているのになんでだろうと思っていたが、退却する時に毒を巻いて敵を恐れさせるということだった。これが戦後有名になった石井部隊だと思う。
・ソ連の監視を続けていたが、夜間に物資を輸送していたようで、変化はわからなかった。

○昭和十六年十二月八日、大東亜戦争開戦。

・班長が報告してくれた。
・小学生の頃、日本は三大強国だと教えられて本当かと疑っていたが、半年もたたないうちにどんどん進撃するので、日本は強い国なんだなあと思うようになった。
・ミッドウェーで負けたの話を聞いたが、入営前に海軍の人からアメリカには空母が七隻、日本には十隻あると聞いていて、それならまあ大丈夫かと思っていた。

・それからは連隊から離れた山の中にある通信連絡所にずっといた。
・「ゆうべ、河でバシャバシャ音がしたが、あれは日本の特務機関が変装してソ連に渡ったようだ」という話を聞いたことがある。

○昭和十八年四月、満期除隊が延期に。

・満期服も作っていたのに。
・毎日毎日同じような生活。弾の下をくぐってみたいけれど、こんな平和じゃなあと思っていた。
・初年兵の最初のうちは優秀だと言われていたが、だんだんといい加減なことをするようになっていき、人事係からあまりよく思われていなかった。

○昭和十八年夏、人事係に「落下傘部隊に入らないか」と言われた。

・落下傘部隊は志願制なので、おかしいことを言うなあと思ったが、落下傘部隊は勇ましいし、運動もできるので行くことを決めた。人事係も人選に苦しんでいたようで喜ばれた。
・「よかったなあ。死に場所を見つけたなあ」と思っていた。残った同年兵には「決死隊だから可哀そうだ」と言われたが、「お前たちの方が先に死ぬんだ。俺は死なねえぞ」という気持ちだった。
・隊から十人が選ばれる。もともと通信兵は人数が少なく、空挺部隊に志願させて集めるのが大変だったようで、半分強制だった。盛大に送別会が開かれた。
・琿春から軍用列車に乗った。列車には砲兵も乗っていた。「砲兵も落下傘部隊になるのかなあ」と思っていた。九州に着いた時、日豊線に乗ると砲兵はいなくなっていた。
・宮崎県の河南駅に到着。駅前に農家が二、三軒あるだけの田舎でがっかりした。
・駅から十分くらい歩くと衛門があって、広い降下場があった。

○昭和十八年九月三十日、第二挺身団司令部通信隊無線中隊に転属。

・部隊は新設で兵舎は作られたばかり。
・通信隊は有線250人、無線250人の計500人。
・司令部には若い女の人が十人もいた。軍隊の兵舎は女人禁制じゃないかと思って聞くと落下傘修理の事務員だった。
・降下場は元軍馬の牧場。衛門のある南側以外は柵もない。
・戦車隊もいた。まさか戦車を落下傘で落とすとは思わずびっくりしたが、グライダーに載せると聞いて納得した。軍用列車で一緒だった砲兵もグライダーで、茨木県で訓練を受けたらしい。しかし、グライダーはもうなかった。
・満州では天皇陛下のためだとしょっちゅう言われていたが、ここでは自分のためと言われた。戦地で最後に残るのは自分の体だけだから、体を鍛え上げろということだった。
・体操ばかりやっていた。落下傘部隊はもう教官がいらないと言われていた。
・「降下は男度胸の降下である。その反面恐怖の降下である」。「挺身殉国の精神」。
・単独降下→連続降下→集団降下→武装降下→戦闘降下と訓練が進む。
・はじめは何も付けないで体操着で降下し、段々と兵器を持って降下する。
・着地する時が一番難しい。骨折が多い。必ず足をまっすぐ閉じていなければならなかった。
・降下訓練の時、地上教官が下からみている。「足そろえろ―」と言っていた。
・訓練中怪我をした兵士は転属させられた。
・無線機はあらかじめ投下して拾いに行った。
・四機編隊の先頭機に指揮官が乗って、一番最初に飛び降りる。次に後続の機の一番偉い人が飛び降りる。これは考えたなあと思った。偉い人が率先して飛び込むのはいいことだし、一番危険も少ない。
・輸送機部隊は新田原にいた。輸送機はMC。武装兵十四、五名が乗れる。
・基本的には兵隊と同じ服。その上に落下傘のヒモがひっかからないように雨外被を着ていた。
・小銃は真中で二つに折れるもの。それと拳銃を持つ。通信隊にはなかったが自動小銃も使われていた。
・無線機も小型で新しい地四号。普通のものは手で回して発電するが、ガソリンで発電するので電波が遠くまで飛んだ。
・週二回代用食が出た。落下傘部隊の食事は恵まれていた。
・髪の毛をのばした十五人くらいの将校がやってきたことがあった。「なんだありゃ」と思っていたが、中野学校の生徒だと後で聞いた。
・倉庫に学生服がたくさんあった。様々な大学の学帽もある。ただ、慶應の上着に早稲田のボタンが縫い付けてあったりでちぐはぐ。これは落下傘部隊が出来た当初、読売遊園地の落下傘降下塔で民間人に変装して訓練していた際に使っていたものだった。本物の学生に絡まれて乱闘になり、警察につれていかれて殴られても部隊名は絶対に言わなかった兵士の話が、部隊で語り継がれていた。
・落下傘部隊は最初モサクレが多かったらしい。自分達のころはおとなしい人達になっていた。

○昭和十九年四月、昼間に父親が危篤との電報が届いた。

・急遽帰郷することになったが、時間表を見ると夜十時発の電車しかなかった。弁当を二食分もらったが代用食だった。これだけじゃ足りないと言ってあんパンを十個もらった。
・列車に乗ると、となりに農家の人が座った。どこに行くかいろいろ話して、食べ物がないと言うと、翌朝「一緒に食べましょう」と当時絶対食べれなかった太巻き寿司をくれた。お礼にあんパンを挙げると喜んでいた。
・門司に到着。ここからは急行列車に乗って二十四時間かかる。
・弁当の中身がボロボロになってきて、捨てるのはもったいないし、どうしようかと考えていると、向かいの席に紳士がのってきた。こんなものをあげるのは失礼かと思ったが、どうですかと差し出してみると、大喜びだった。それから二日間は何も食べなかった。
・自宅に着くと父親は亡くなっていて、葬式も終わった後だった。線香をあげるよりも空腹だったのでご飯を食べていた。「お前は何を考えているんだ」と怒られたが、「親父は七十まで長生きして幸せなんだ。俺は二十五で死ぬんだから」と思いながら手を合わせていた。
・それから親戚中を、「落下傘部隊だから。もう命はないから」と最後のあいさつをしてまわった。
・母親は涙を流していた。国のために死ぬのに親がなんで涙を流すのかと思った。
・本当は落下傘部隊だと言ってはいけないけれど、最期だから話した。

○昭和二十年十月二十日、米軍レイテ島上陸。第二挺身団に動員下令。

○昭和十九年十一月七日、比島へ出発。

・無線隊は64名。
・九州から輸送機に乗り、台湾屏東飛行場に着陸。。
・なかなか輸送機が飛ばない。航空隊に聞いてみたら、「今フィリピンは空襲だよ。あの空襲が終わってから出るんだ」。状況を全然知らなかった。

○昭和十九年十一月七日、南サンフェルナンド到着。

○ 昭和十九年十二月三日、アンヘレス到着。

・三十九機の飛行機が集まってすごい数だった。
・米軍機の空襲で、輸送機部隊が退避した。その後敵機が急降下でバリバリ来た。空から音が聞こえて、薬莢が落ちてくる。操縦士が見えた。防空壕の作り方も知らないので、あっちににげたりこっちに逃げたり。「俺は命を捨ててきたのに、なんでこんなに恐怖にかられるんだろう。内地の人に見られたら恥ずかしい」と思っていたが、他の人はそのようなことを全く考えていなかった。この後防空壕を作るようになった。
・段々空襲にも慣れてきて恐くなくなった。
・このころは日本軍が多かったためか、ゲリラはなかなか出て来なかった。

○昭和十九年十二月六日、第一次降下。【※ブラウエン飛行場等へ】
○昭和十九年十二月八日~十四日、第二次降下。【バレンシア地区へ】

・西海岸の三十五軍の司令部が危ないと言うので急遽バレンシアへ変更になった。
・通信隊からは二個分隊降りただけ。第一回目に東海岸に降りた一個分隊とは通じなかった。
・東海岸に降りた部隊とは無線が通じなかった。アメリカの無線機も使って傍受しても通じない。操縦士によれば火を吹いて落ちた一機が通信じゃないかということだった。
・三十五軍のところに掩護降下に降りた部隊とは無線が通じた。
・毎日嫌な報告がばかり入って来る。「何々中隊長戦死」、「何々中隊長負傷」。でも戦果はあったようだ。
・不開傘で九人が戦死。ショックだった。弾薬の重みでワイヤーが切れてしまったのが原因らしい。
・第二回の時、重かったためか輸送機が飛び立たった後、浮き上がらずに突っ込んでしまったけれども、みんな助かったらしい。

○昭和十九年十二月二十四日、マニラの飛行場に移動命令が出た。

・アメリカの落下傘部隊がクリスマスのプレゼントにマニラの飛行場に降りるということで、防御することになったが、結局降りてこなかった。

○昭和二十年一月頭、マニラの市街地に移動。

・なんとかホテルの前で塹壕堀。

○昭和二十年一月九日ごろ、北部ルソンへ移動命令が出た。

・四百キロくらい歩いた。グライダー部隊はクラークに送られた。
・サンホセ手前の部落で、部隊の一部がゲリラ討伐に駆り出された。教範を見るように見事に突撃し、こちらは五名戦死したが、ゲリラにも九十名以上の損害を与えて、通過部隊から「高千穂部隊は大したもんだ」と言われるようになった。
・途中で敵の戦車に遭遇して無線機が破壊された。

○昭和二十年二月七日、ゴルドン(※Cordon?)に到着。

・一カ月休養。
・第四航空軍の富永中将が台湾に逃亡したことを聞いた。「東条大将の腹心の者だから、そんな重い罰はないだろう」と噂されていた。その通りになった。

○三月十日ごろ、第一線へ出陣命令。

・バレテ峠の東側を守備することになった。
・降りなかった隊員で十個中隊が編成される。通信からも十名出ていって第一線で戦ったが、全滅してしまった。
・部隊にくっついていて、戦闘には参加しなかった。

○二十年五月なかば、切り込みを命じられる。

・米軍は高射砲で地上を撃つ。それを爆破しろと言われて三人で夜に出ていった。
・陣地を見つけたが高射砲は見つからなかったが、すぐそばにアメリカ兵が歩いて、いよいよこれで終わりかと思った。命を捨てた人間がなぜこんなにも恐怖するのか自問自答していた。短気な北海道出身の兵士が「拳銃でやっちまおう」と言ったが、「よせよせ、それは任務じゃない」と言ってやめさせた。陣地を爆破してから戻った。

○昭和二十年五月末、バレテ峠が米軍に突破される。

○昭和二十年六月二十日ごろ、転進命令が下る。

・一番元気で歩けたので、先行して後から部隊が来るのを待つことを繰り返した。
・食うや食わず。
・山の中にはイゴロット族がいて、これは首狩り族で人を殺して食べると言われていた。部落を見つけると食べ物を探しに行ったが、住民も食糧もなかった。家の中には日本と同じようにいろりがあって、灰の中から芋の皮をさがして食べた。
・歩いていると戦友が倒れていた。「キニーネはあるか」。こんなの効くもんかと思って飲まずにとっておいたので、それを渡してびっくり。その戦友の手は雨に打たれて真白にふやけていた。その後、その戦友に会うことはなかった。後から行くと言う人はすぐ死んだ。
・ある日、丘の上で裸になって服のシラミをとっていた。近くに誰かがやってきて草むらで小便をした。そこにはミツバチの巣があって、ミツバチの大襲撃を受けた。飛行機のようですごかった。知っている人がいて、「動くと刺されるぞ」と言う。気持ち悪かったが、裸でじっとしていて刺されなかった。刺された人は夜に熱がでていた。蜂蜜はなかった。
・七色のキノコがだーっと生えている。黄色、黒、いろいろある。毒があると言われていたがそんなことは耳に入らない。一応裂けるものだけ選んで食べたが、食べた後に心配になった。結局何ともなかった。

○昭和二十年八月十日ごろ、休んでいると知らない兵隊がやって来た。「食べませんか」「なんだ?」「ノロの肉だ」。感謝しながら貰って食べた。南の方にもノロ鹿がいるんだなあと思っていた。

○昭和二十年八月二十二日ごろ、最後に通過した部落で熱が出た。

・持っていた体温計で計ると三十九度で動けない。尻に違和感がある。これは痔にでも出なったかと思い戦友に見てもらうと、大きなできものができていると言うのでカミソリで切ってもらった。すると熱が下がって楽になったが、三十メートルも歩けなくなった。残ることは死ぬことだと思ったが、残ることにして隊長に報告した。「わしも足を怪我してそんなに歩けないから一緒についてこい」。それで一緒に行くことにした。戦友に叩かれ叩かれ歩いた。
・坂を下っていくとだんだんと平地になって、川もゆるやかになった。そこで、いかだで下ることになった。
・三十数名いた通信隊で、この時に残ったのは十四名。五名、五名、四名でいかだを作って下った。一番前は隊長と元気な兵隊。衰弱していたので一番後ろの船に乗った。
・下っていると大きな石にぶつかっていかだが転覆。河に投げだされた。衰弱しているので十メートルも泳げない。なんとか上がってみると褌だけになっていた。
・先頭のいかだも転覆。松浦隊長たちは見つからなかった。
・兵隊が通った道を、休んでは進みを繰り返して進んだ。しばらく行くとサクランボに似る実がたくさん生えていた。ほとんどの実の中には二ミリくらいの小さい虫がいて、最初は取っていたがだんだん気にしないで食べた。
・兵士がゴロゴロ死んでいる。白骨になって目にはハエがたかっている。死体の近くに置かれた服や靴や銃をひろった。死体がつけているものはもうダメになっていた。
・どの死体の枕元にも大体家族や奥さんの写真が落ちている。まったく女々しいなと思っていたが、後で考えてみればかわいそうなものだと思う。
・死体の中には「あの尻の肉はずいぶん不自然だな」と思うものがあった。おそらく日本兵が切っていたんだろう。

○昭和二十年八月三十日ごろ、ピナパガン到着。

・各部隊が集結していた。
・とうもろこしがたくさん生えていた。二、三人の兵隊が火を焚いて煮ていて、一本くれた。生のままばりばり食べた。
・長い棒を担いでいる人がいたので、なぜ持ってるのか聞いてみると、海に流れるように、岸に流れ着いた死体を河に流しているということだった。

○昭和二十年九月十二日ごろ、日本の無条件降伏を知る。

○昭和二十年九月十七日、ヨネス(※Jones?)で米軍に投降。

・隊長の命令で宮城に向かって捧げ銃をした。なおれと言ってもだれも銃をおろさない。皆涙ぐんでいた。喜びの涙でも悲しみの涙でもなかった。こんな苦労した軍隊でも、なにか敗けたというのはさびしい。なんとも言えない気分だった。
・米軍が持って来た大きな空気のボートに五住人くらい乗って河を下った。
・着いたところには多くの部隊が集まっていた。小さいテントに日本の将校や偉い人が十人集められていて、我々の方を眺めていた。みんな刀を持っておらず、哀れなものだった。
・すぐそばに米軍の診療所があって、倒れた戦友を運び入れてベッドに寝かせた。その時、戦友の持っていたレーションを食べようかどうか本当に迷った。自問自答の末に食べないで枕元に置いて来たが、戦友はその後死んでしまって、やっぱり食べればよかったかなあと思った。
・米軍が指示した道路に着いた。米軍はわざわざ日本軍の捕虜を収容するために道路を作っていて、砂利を運んだ大きなダンプを見てびっくりした。
・待機していると、八両編成くらいの汽車みたいなトレーラがやって来た。それに乗るが、衰弱しているので誰も自分の力で乗りこめない。すると、アメリカ兵がニコニコしながら皆をを押し上げていた。「アメリカ兵はどうも我々が思っているものとちがうなあ」と思った。シラミだらけで汚い体なのに、親切で嫌味っ気が全然なかった。
・バタンガスの収容所移動。何万もの日本兵がテントで生活していた。
・支給されたテントには製造日が書いてあって、新しいものは作りが粗雑だった。
・毎日八時間労働。道路工事なんかをしていた。
・一度夜間作業で防毒マスクの解体をやらされたことがあった。夜食がでないので腹が減る。作業場の隣が糧秣廠で、ベーコンやらバターやら入りきらない食糧が山と積まれていた。それを交代でとりに行った。周りは鉄条網で囲まれていたが、側溝だけは空いていて、もぐってとった。
・収容所はオイチョカブをしたりのんびりしていて、アメリカ兵とも友達みたいだった。
・アメリカ兵は十七か十八歳くらい。日本のことを知りたがるので、よく話をした。「親切だから黒人が好きだ」と話をしたら、「黒人は国に帰ったら靴磨きだ」と馬鹿にしていた。本当かどうかわからないが、黒人の将校が「平等にしてくれるから日本が勝てばよかった」と言っていたという噂を聞いたことがある。
・ある日仕事が終わってからマンゴーの木の下で寝ていると、アメリカ兵のガードに見つかった。「歯が痛い」と言うと、ジープを呼んで歯医者に連れて行って、痛くもないのに治療してくれた。
・何もないけれど戦犯になることが心配だった。悪いことをしていたのは現役ではなく召集の人が多かった。
・中々日本に帰れない。収容所の偉い人に、捕虜の代表が「帰す約束なのになんで帰さないんだ」とかけあったことがあった。迎えに来る船がないから待っていろということだった。
・日本の上陸用舟艇に乗船。
・赤いご飯が出て、赤飯がでたと喜んでいたが高粱飯だった。
・アメリカの物をもっているとえらいことになると言われて、コーヒーやらタバコやらみんな捨てたが持って帰ってくればよかった。
・中国では勝ってもヨタヨタで帰って来る。ところがフィリピンでは負けたのに、頭の毛にポマードをつけて太って帰って来る。こんなのでは石をぶつけられると噂されて、みんな頭の毛を刈った。結局何もなかった。

○昭和二十一年十月三十日、名古屋上陸。

・切符とアメリカから十五ドルくらいの小切手をもらった。港にアメリカの銀行が出張してきていて日本円に換えてもらった。
・日本に着いてもうれしいというより、「これからどうするかなあ」という感じだった。
・帰って来たのは体が丈夫だったから。やっぱり運が良かった。
・あの時食べた肉は本当にノロの肉だったのか。今ではもうわからない。
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2012/05/19(土) 02:14:37 | まとめwoネタ速neo