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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
ゴールデンウイークの大分・熊本キャラバンが5月5日(土・祝)に伺った証言の概要です。
この旅の最後の方になります。メーリングリストより転載します。

新道(しんみち)満人さん (旧姓 東)

取材日 2012年5月5日

生年月日 1931(昭和6)年1月
当時の本籍地 大分県佐伯市

1941(昭和16)年11月 佐伯湾で連合艦隊が真珠湾攻撃に備えた演習。
○小学校5年生、朝起きると部落のすぐ目の前まで軍艦が来ていて、狭い湾一杯に艦隊が溢れていた。
海で育った友だち何人かで、櫓を漕いで軍艦を見に行ったら、すぐに縄ばしごを投げ降ろしてくれて船に上がらして貰った。
駆逐艦ではなかったかと思う。
白い手袋をした将官に水兵たちが敬礼をしていてポスターで見たままだった。海軍への憧れが強くなる。

1942(昭和17)年 小学校6年生
○前年太平洋戦争が開戦、占領地からの材料で作ったというゴムマリが全国のこども達に配られた。子供心に戦争に勝っているのを実感した。

1944(昭和19)年秋 海軍特別少年兵に志願・合格
○長兄は徴兵で6師団へ、その後父の勧めか憲兵になっていた。
次男は海軍を志願、3男は予科練を志願。
学校の教室の後ろにはポスターがびっしり貼ってあった。
親戚には教員が多く、長兄は師範学校への進学を勧めたが志願をした。
父は誇りに思っている感じ、母も反対はしなかった。
○本当は左耳が子どもの頃から難聴だったが、対面方式で返事が出来れば良かったので右だけで対応した。

1945(昭和20)年3月10日 尋常高等小学校の卒業式
○卒業式は毎年小学校と高等小学校と併せて3月28日と決まっていた。
担任の先生から校長先生からの手紙が入っていると封筒を貰った。
一人の卒業式をやるとあった。
全校生徒400名弱が集められ、自分だけのための卒業式が行われた。
君が代斉唱、校長挨拶など通常と同じ式次第。
挨拶もしろと言われたが出征兵士を部落で何人も見てきたので、だいたい何を言えば良いかは分かっていた。
感激したし、自分だけ一足先に旅立つのだという気がした。
先生たちは畏敬の念を持って接してくれているようだった。
 
1945(昭和20)年3月20日 防府海軍通信学校(山口)に入隊
○入校式は力強いものを感じていた。
白い手袋の中将が挨拶をして引き締まる思い。
命はいらない、防人になるんだという純粋な気持ち。
自分は靖国神社に行くが家族はそれぞれ幸せにやってくれと、励ましているつもりで手紙を書いていた。
洗脳されていたんでしょうね~。世の中全体が灰色の社会だった。
○防府は空襲もない。
○起床1時間前には厠に行き、服を着けておく。
週番士官がこつこつ靴音をさせて見回るが、毛布を首までしっかり被って隠していた。
起床から服を着、吊り床をたたみ整列まで3分。そうしないととても間に合わない。

1945(昭和20)年5月 津和野(山口)に
○通信がモールス信号から暗号に切り替わると言うことで特訓生に選ばれた。
夜中に津和野に着き朝トラックで山中のお寺に運ばれる。
村の人が面倒を見てくれたが白米や大根が山盛りで困らなかった。
○本土決戦要員だと聞いたが戦況が先を行って仕舞った。

1945(昭和20)年7月 宇佐海軍航空隊(大分)へ
○津和野から小郡を出て佐世保へ、小郡からは列車の窓を全部降ろし外を見えないようにされた。
佐世保に降りると空襲で真っ黒焦げの焼け野原で唖然とした。
佐世保鎮守府で食事の順を待っていると、向こうの方で塩汁にタマネギの量の多い少ないで喧嘩が起きている。
食糧がないことを知った。喧嘩の内容に呆れた。
勝てるわけがないと初めて知った。
佐世保鎮守府で封筒が渡されそこに配属先が書かれており、宇佐海軍航空隊へ。
○宇佐に着いた頃には、飛行場は爆撃されて使いものにならず、飛行機も殆ど残っていなかった。やる事が何もない。
毎日空襲警報がある。
どうなるんだろうと思っていたが言葉には出来なかった。
○上官たちは優しかった。自分では一人前のつもりだたけど、14歳、身体も明らかに小さく、弟のように思ってくれたのではないか。

1945(昭和20)年8月15日 敗戦
○前日からぴたっと敵機が飛ばなかった。
ただ「ポツダム宣言を受諾した」と書いたビラをまきにきた機があった。
○15日全員集合して詔勅を聞く、よく聞き取れなかったが上官たちは泣いており、私たちは唖然としていた。
これからどうなるか不安の一方で、空から爆弾が落ちることはもうないとほっともした。
○尉官たちが毛布や物資を荷車に積み込んで持ち出していた。
貧しい環境になったらいやしくなるんだなと思った。
自分は子どもだったから家に帰るのが嬉しいというぐらい。

1945(昭和20)年9月半ば 復員
○残務整理を終えて復員、汽車はいっぱいだった。
家に帰ると長兄が硫黄島で戦死していた。
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