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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
ゴールデンウイークの群馬・栃木キャラバン2班が4月29日(日・祝)に伺った証言の概要です。
メーリングリストより転載します。

◎北村辰五郎さん(90)
取材日:平成二十四年四月二十九日
所属:歩兵第十五連隊(東部46)第一機関銃中隊~独立歩兵第三百二十八大隊本部
兵科:歩兵(重機関銃)
戦地:満州(チチハル)~ヤップ島
――――――――――――

○大正十一年四月二十一日、群馬県生まれ。

・実家は農家だった。
・小学校を卒業しないうちに中島飛行機から職員の募集がきていたので応募。

○昭和十二年ごろ、15歳の時に中島飛行機太田製作所に就職。

・日給40銭。
・家から自転車で通った。
・胴体の組み立て作業にあたる。
・扱かったのは主に民間機のAT。ダグラスの次に大きかった。(※中島AT-2高速旅客機)
・飛行機は鉄でなくジュラルミンなので溶接はできずリベットの鋲打ちだった。
・組み立てられた飛行機は人通りが少ない夜のうちに工場から尾島の飛行場に運んだ。
・運ぶのは業者と年配の従業員。人力で押して運んでいた。
・後に工場のすぐそばに飛行場が出来て楽になった。

○昭和十六年十二月八日、会社で開戦を聞く。

・今から考えてみると馬鹿だったと思うが、当時は軍艦マーチを聞いてわくわくした。
・戦争がはじまると工場でもだんだんと爆撃機を作るようになった。
・キ21(九七重爆撃機)、キ49(百式重爆撃機)の組み立てをした。
・軍用機は実用性重視なので旅客機より作るのは簡単。

○昭和十七か八年、徴兵検査。

・結果は第一乙。

○昭和十八年二月十日、東部46部隊に歩兵第十五連隊要員として入営。

・国のため、男として当然という気持ち。
・同じ地域から二人が一緒に入営した。自分は高崎連隊だったが二人は水戸連隊で、駅から二人と別方向の汽車に乗った。その後、水戸連隊は玉砕して二人も帰らなかった。
・高崎で基礎訓練。
・さんざん殴られた。ひどかった。
・はじめて殴られた時はトイレで皆が泣いていた。
・殴られて鼻血が出た時は、教官も驚いていた。

○昭和十八年四月ごろ、満州の原隊から下士官と将校が迎えに来てチチハルへ。

・汽車で九州まで行き、そこから船に乗って釜山上陸。また汽車に乗った。
・今の北朝鮮に入ると鎧戸がしめられて外が見れなかった。南はそんなことはなかったので不思議に思った。
・チチハルに到着すると第一機関銃中隊に配属された。
・ここでの訓練は夜間演習ばかりで参った。寝る間がなかった。
・機関銃をわっしょいかついで忠霊塔まで行軍した。
・スイカが道にたくさん積んであって、内地にはなかったのでたまげた。
・行軍している時に現地人の葬式を見た。楽隊や泣き女がいて日本よりにぎやかだった。
・満州国軍は日本軍より上等な服を着ていた。日本軍はボロを着ていたので、よく馬鹿にされた。ただ兵器は日本軍の方がいいものだった。
・酒保品にスイカがあったので食べたら、夕方になって皆が腹痛を訴えた。駐屯地の隣に病院部隊がいたので診てもらうと、腸チフスに罹患していて、そのまま入院させられた。年配の補充兵はバタバタ死んでいった。
・ソ連のスパイかなにかが毒を入れたスイカを部隊に納入したのではないかと噂された。
・病院では重湯と肉の入ったスープを二食分ずつくれてすぐ回復した。

○昭和十八年十二月暮れ、病院下番。

・部隊はニューギニアに行くということになっていた。
・チチハルからどうやって行ったのか覚えていないが、九州の佐伯港に行った。

○昭和十九年一月九日、「でんまーく丸」(白洋汽船、5869トン)乗船。佐伯港出帆。

・各部隊から3400人が集まって乗った。
・六隻の船団。
・九州と四国の間を通る時、一隻が敵潜水艦に撃沈されて佐伯港に引き返した。

○昭和十九年一月十三日、再び出帆。

・輸送船はどんどん沈められて、でんまーく丸ともう一隻だけになった。
・もう一隻は何も積んでいないのか喫水線が見えた。そのために敵も狙わなかったのかもしれない。
・船倉は五層くらいになっていて、二層目くらいにいた。、甲板に出れるように一本だけ非常用の縄梯子があった。
・船に戦友が二、三人しかいなかったのでいつも縄梯子のそばでタバコを吸っていた。

○昭和十九年一月十六日午後六時ごろ、いきなり「中に入れ!」という号令が飛んだ。

・そのあと水がバーッと入ってきた。
・「あれ?」と思っていると、船がゴゴーンと動揺した。すぐに縄梯子を登って甲板に出た。
・非常時には海に飛び込む合図のラッパが鳴らされるはずだったが鳴らなかった。飛び込まないでいると、船尾の方から水が流れてきて、そのまま気絶してしまった。
・気が付いたら息が出来ない。海の中だった。ガブガブ海水を飲んでしまった。死ぬのはこんなに苦しいものなのかと思った。
・苦しいなと思っていたら海面に上がった。目の前にいかだが浮いていて、それにしがみついた。
・いかだは波でゆらゆら揺れる。みんなで軍歌を歌った。
・死ぬとは思わなかった。

【※昭和十九年一月十六日、米潜水艦「ホエール」(USS Whale/SS-239)は「丁秣(でんまーく)丸」を撃沈】

○昭和十九年一月十七日午前八時頃、駆潜艇に救助される。

・力が出なくて自分で上がれなかった。海軍の兵隊が輪っかにしたロープで引き揚げてくれた。
・甲板はエンジンの排気が流れていて暖かい。良い気持ちで眠くなる。眠りそうになると海軍がはったおす。
・眠った戦友は死んでしまって水葬にされた。一人じゃなくて三人も四人も。もっといたらしい。
・駆潜艇は千人くらい救助して、全速力で沖縄に向かった。

○昭和十九年一月十七日夕方、沖縄に上陸。

・小学校に入った。
・着の身着のままでなにもない。
・大きな砂糖の塊を二つ貰った。
・将校は大きな羊羹を食べていた。兵隊はもらえなかった。ひどかった。
・将校はボートで逃げたんだと思う。付けていた腕時計が動いていたから、海水につからなかったんだろう。

○三、四日して生き残った輸送船に乗船。

・甲板でシートを巻いて寝ていると、小隊長の横山少尉がやって来た。チフスがまた再発したらしょうがないから、基隆についたら下船して病院へ入れと言われた。
・それから覚えていないが、気が付いたら基隆病院のベッドで寝ていた。
・町に出ると飴などが売っていたが、どうせ死ぬと思って俸給は全部家に送金していたので変えなかった。
・台湾はタバコが安くて七銭くらいだった。
・二カ月くらいして原隊に戻るため、パラオ行きの船便に乗った。

○昭和十九年三月二十八日、パラオ上陸。

・港には戦艦武蔵がいた。やっぱりでかい。
・基部隊(51師団衛生隊?)に居候することになった。年寄りの補充兵の部隊で、現役の自分は馬鹿にされて酷い目にあった。

○昭和十九年三月三十日、パラオに米艦載機の大空襲があった。

・山から見ていたが、船が全部やられた。

○昭和十九年四月はじめごろ、アンガウル島へ行けと命令される。

・三百人くらいで守備にあたった。
・二十日くらいいたら、パラオに十四師団がやってきた。
・アンガウル島にも五十九連隊の一個大隊千二百人くらいが来て、交代してパラオに戻った。
・パラオに戻るとヤップ島に一個大隊が足らないから行けと言われた。

○昭和十九年五月ごろ、独立歩兵第三百二十八大隊本部に転属。

・空襲を逃れたキャッチャーボート(捕鯨船)でヤップ島へ。
・ヤップ島には久留米の旅団がいた。群馬の連隊と気性が似ていた。
・大隊長は小桜八太郎少佐。あんないい人はいない。「北村、北村」とかわいがってもらった。
・現役なので伝令用員になった。
・各所に原住民の集会所があって、そこが本部に使われていた。
・大隊本部から旅団本部まで歩いて二時間かかる。ある朝、旅団本部に伝令に出かけると上空をフロートの着いた飛行機が飛んで艦砲射撃を誘導していた。おっかなくて動けなくず。結局着いたのが夕方になってしまった。
・ヤップ島では普段褌一丁で靴もはかない。旅団に行く時と戦争になった時だけ着る。
・寝床は大隊本部。ビンロウの葉を敷いて寝ていた。
・食べ物は全然ない。さつまいもの茎と葉っぱを食べていた。戦争なんかできっこない。
・野生のマンゴーとって飢えをしのいだ。
・魚をとって食べても下痢してしまう。
・エイのでかいの(マンタ?)を豆腐大に切って、てんぷらにして食べたら、夜みんな下痢になった。味は良いのにだめだった。
・ヘビやネズミはいなかったが、一メートルくらいあるでかいトカゲがいた。追いかけると木にのぼるが、石を投げると降りてくる。そこを捕まえた。えらいごちそうだった。ずいぶん食べた。
・タバコも全然ない。どうしても吸いたくなるとバナナの葉っぱに火をつけて吸っていた。
・フランペッシャー(?)という皮膚病が流行った。一回罹ればもう罹らないが、皮膚が腐る。薬がないので衛生兵が切り取るが、これが痛い。五つか六つ切ってもらった。
・原住民は頭がいい。戦争前にやってきた沖縄とか朝鮮の人が馬鹿にされていた。
・原住民は「ヘイタイサン、ヘイタイサン」で親日的。白髪がなく、犬ではなくて豚を連れいていた。腰みのと石貨が印象的だった。
・艦砲射撃も空襲も毎日ある。
・ヤップ島からウルシー島が肉眼で見えたが、敵の船でいっぱい。
・日本の爆撃機が三十機くらいウルシー島を攻撃にやって来たことがあった。夕方、変な音の飛行機が来て、あらおかしいと思ったら日本の飛行機が三機着陸した。
・そのうち二機がだめになって、機関銃やらなにやらを全部おろして、一機に二十人くらい乗っかって飛び立っていった。あとで日本に着いたと聞いた。

【※昭和二十年三月十一日の梓特別攻撃隊】

○昭和二十年八月十五日、ラジオで終戦を知る。

・みんながっかりしていたが、自分はそうは思わなかった。アメリカの方が進んでいることが分かっていた。
・すぐに米軍がやってきて、降伏調印式に行く大隊長についていった。大隊長は波止場から大発で米軍の船まで行って、タバコと6ポンドのコンビーフの缶詰を持って帰ってきた。皆大喜びだった。
・武装解除の検査の時、ふんどしまではずされた。
・そのころ赤痢が流行り始めていて、元気だった自分が炊事係になった。
・米軍からココアをもらった。口当たりがよくてうまい。だが夜眠れなくなって困った。
・アメリカはほとんど食糧をくれなかった。乾燥したニンジンの缶詰くらいで主食はくれない。

○昭和二十年十二月、コロニヤの波止場から駆逐艦の「ちょうかい」(?)に乗船。

・最新の駆逐艦で、早くてきれい。
・船に弱いので乗ったら寝たきりだった。
・浦賀に近づくと「女の人が歩いてる」と大騒ぎになって、甲板が人でいっぱいになった。

○昭和二十年十二月十五日、浦賀上陸。

・浦賀に二、三日くらいいて解散になった。
・大隊長が「わしはなあ、村に帰って村長でもやるよ。それじゃあなあ」と言って別れた。後にその村は町になって、大隊長は町長になったらしい。
・金平糖の入った乾パンを三食ほど貰って雑嚢に入れていた。列車に乗ると誰もいなかったのでトイレのそばにかけていた。
・午後三時ごろ、地元の駅に着いて降りると、乾パンだけ盗まれていたことに気付いた。食糧事情が悪いとは聞いていたが、こんなもんかなあと思った。
・夏服で駅から家まで歩いて帰るのが恥ずかしかったので、駅前の知り合いの床屋で暗くなるまで待った。
・家に着くと、うどん粉で作ったカレーを食べた。やっぱりうれしかった。


●終戦時、陸軍上等兵。
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