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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
群馬・栃木キャラバンが4月28日(土)に伺った証言の概要です。
メーリングリストより転載します。

◎石丸 勇三さん
本籍地:新潟県
大正4年9月5日生

18歳のときに東京のおじさんを頼って新潟から上京していた。
それまでは、納豆工場に勤めていた。
上京して、鋳物職人の親方を渡り修行を積んでいた。最初の仕事場である「日本鋳造」では、半年働いた。小さな型しか作らせてくれなかったのでつまらなくなった。やめたいがやめさせてくれない。なので、「兄が死にました。お暇をください」と嘘を言って仕事を辞めた。

何社か渡り歩いて、23歳のときに軍需工場の「関東製鋼」(現在の大桐製鉄)に現地徴用されてて勤務。
大砲の弾の鋳造を作っていた。腕のいい職人は重宝され、稼ぎもよかった。月に1万2千円(!?)をもらったこともある。
人夫で50銭で稼ぐ時代だったとのこと。
⇒この金額に関してですが、何度聞きなおしてもこの金額でした。
 当時の貨幣価値からすると想像を超える金額ですが。。。
 ちなみに、米10kg: 6円(s20年)、はがき:3銭(s19年)、
 豆腐1丁:10銭(s19年)、入浴料:大人:8銭(s18年)、
 週刊誌:20銭(s19年)。。。

カメラを買ったり、旅行に使ったりと好きなことができた。
実家に帰って両親に10円を渡すと「泥棒をしているんじゃないか。大丈夫か」と却って心配された。

工場は夜9時まで残業をすると、おにぎりが2個出てくる。これは終戦間際でもそうだった。
(鋳物職人がいかに優遇されていたかが分かります)
700人くらいが工場で働いていた。
戦争末期には学徒動員の女学生20人の責任者になった。が、鋳物の仕事を任せることもできず、正直足手まといだった。
工場の空襲もあり、防空壕に避難誘導したこともある。だが、怖がって女学生が防空壕から逃げ出そうとするのを引き戻すのに苦労した。工場では3人空襲で女学生がなくなった。

あれだけ儲けたが、終戦になると軍需はなくなり、週三日勤務になり、家計は一気に苦しくなる。副業として今川焼きを作ってヤミ市で売り生計を立てていた。

「関東製鋼」は戦後まもなく大同製鋼に買収。戦後の混沌とした環境で労働組合の副委員長になり、組合活動に熱中。その結果昭和25年に解雇されてしまった。再就職は非常に困難だった。
⇒ちなみに、就職できないなら起業をということで会社を興して、浄化槽の工事会社をして、非常に儲かったそうです。

国に尽くしたのは軍人だけではなく、空襲の中寝る間も惜しんで働いた人もいて、犠牲になった人がいることを知って欲しいとのことでした。
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