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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
保存の会最年少メンバーの「青春18切符 列島縦断 聞き取りの旅」が、2011年3月10日(木)に伺った証言の概要です。
聞き取りの後、彼が資料をあたって背景等を調べて補完した部分も含まれます。


◆◆◆

◎酒井朝次さん(90)
・大正九年生まれ
取材日:平成二十三年三月九日
所属:中部第四十部隊(野砲兵二十二連隊)~野砲兵第二十一連隊(祭7378部隊)第二大隊第四中隊
兵科:野砲兵
戦地:中支~ビルマ


○大正九年九月一日、京都府生まれ。

・小学校卒業後親類の家で家業を手伝っていたが、その後京都にあった寿製作所に旋盤江として勤める。製作所はだんだん軍需工場に変わっていった。
・ドイツ製のものと比べて日本の工作機械は性能が悪かった。
・外国の映画が好きでレマルクの「西部戦線異状なし」などをみていた。

○昭和一五年十二月一日、伏見の中部第四十部隊(野砲兵第二十二連隊)へ野砲兵第二十一連隊要員として入営。

○昭和十五年十二月十九日、下士官に引率されて京都出発。野砲兵第二十一連隊第一大隊第三中隊へ入隊。

○昭和十五年十二月二十日、宇品発。
○昭和十五年十二月二十四日、南京着。

・兵営は中山門の近くにあった元蒋介石の軍官学校。
・南京は治安が良かった。中国人街の映画館に一人で行ったことがあったが恐いとは思わなかった。
・慰安所もあった。昼は兵隊が行って夜に将校が行き性病をたくさんもらってくる、という話もあった。

・第三、六、九中隊は十榴を装備。はじめは第三中隊で十榴の教育を受けたが、十榴が仏印進駐部隊のために南方に送られてしまい、さらに昭和十二年兵が除隊して兵員も縮小したために第三中隊は解散となる。
【※昭和十六年六月二十五日、野砲兵第二十一連隊は編成改正により二個大隊編成になる。】
・それから野砲装備の第四中隊に転属。

・訓練の成績がよかったので十榴の時は二番砲手をつとめていた。
・砲を牽くのには馬をつかっていた。機械化部隊がうらやましかった。馬がトラウマで戦争が終わった今でも動物が嫌い。
・対米開戦前だったが、すでに軍服は羅紗から木綿製になり軍帽も略帽になっていた。戦闘帽では格好悪いので中国人に頼んで作ってもらったこともあった。
・演習に出ている間、棚においてある着替えの並べ方が悪いと古参兵に木銃で崩された。
・毛布がよごれているのが古参兵に見つかると赤いチョークで金魚の絵を描かれて洗わなければならなくなった。

○昭和十六年、せっとう作戦に参加。
【※昭和十六年四月十二日~五月二十三日】

・中隊が敵と対峙しており、初年兵も十四・五名があとから連れて行かれた。杭州から中隊に向かう途中でその初年兵達が敵に襲撃された。怪我人はいなかったが動けなくなった一人動けなかった者がいた。その兵隊を野戦病院に送り届けて中隊に向かったが、その後南京に帰ってからその兵隊が自殺したと聞いた。

○昭和十六年十二月、第二次長沙作戦に参加。

・四中隊だけが参加。

○昭和十六年十二月八日、大東亜戦争開戦。

・この時は漢口にいて隣にアメリカの建物があった。開戦の知らせを聞き早速その建物に入って物をとってきたが、怒られたのでとってきた物を返しにいった。

○昭和十七年、せっかん作戦」参加。
【※昭和十七年五月一日~九月三十日】
・たくさんの初年兵を十分な教育を行わないまま連れて行った。そのため多くの行方不明者が出た。
・作戦中は朝暗いうちから出発する。点検すると初年兵がいないことがあった。慌ててきた道を戻ってもみつからない。敵中なのでそのまま出発しなければならなかった。
・師団長が地雷で戦死した。【※昭和十七年五月二十八日、第十五師団長、酒井直次中将戦死】
・作戦がはじまったのが五月の田植時。道がないので野砲が使えず、山砲を使用した。山砲隊の馬は小柄だが野砲隊の馬は大きく体格が違うので、山砲をのせるのに苦労した。
・田んぼのあぜ道を通る。馬が倒れると大変だった。
・作戦中は自給自足。目的地に着くと兵隊が田んぼに稲を刈り取りに行く。それから脱穀し、選別してから食べる。あまった米は種籾も含めて鉄道で後送した。
・撤退する時は村々を焼き払う。小高い丘の上に山砲を設置して部落の方にむけてから、将校が兵隊を何人か連れて火をつけに行く。

・だんだん兵隊が弱くなっていった。
・入隊した昭和十五年には東京から徴集した昭和十二年兵がいた。これは身体のしっかりした人達だった。十三年兵は名古屋出身者でこれもしっかりした身体の人達。十四年兵は京都出身者で、ここから第一乙種の者も現役兵としてやってきた。十六年兵は体が貧弱なのが多かった。
・京都の兵隊は弱い。九州の兵隊はハングリー精神があり勇敢で感心した。

・中国ではほとんど野砲を使わず山砲を使っていた。
・作戦には他の部隊に駆り出されて一門や二門ずつでいくことが多かった。一個中隊四門の砲を並べて撃つことはほとんどなかった。ましてや連隊で一斉に撃つことは一度もなかった。
・入営する前の年に戦闘で中国軍に火砲を奪われて帰って来た隊が、連隊長の命令で兵営の中に入れてもらえなかったことがあったと聞いた。
・火砲と共に死ねといわれていた。
・砲弾は徹甲弾、榴散弾、たまにガス弾(催涙弾)を使用した。
・トーチカを狙う時にはガス弾を使う。
・山砲でも野砲でもよく命中する。トーチカの銃眼の中に砲弾を命中させることができた。
・照準する際には目標をみずに角度だけ決めて射撃していたので、最初は驚いた。将校と観測手が弾着を見て調整する。
・夜間は砲の後ろにランプを置いて、それを基準に角度を決めて発射する。
・野砲は九五式。開脚式。

・敵は蒋介石軍など様々。
・敵は火砲を迫撃砲くらいしか持っておらず勝ち戦だった。中国の戦闘で恐いと思ったことはあまりなかった。
・中国軍の捕虜を処刑をしたということを聞いたことはあったが実際に目にする事はなかった。南京の兵営にいたときに使役としてつかわれていた捕虜を見たことがあったくらい。
・作戦中、村に残っていた中国人を苦力として徴発して使っていた。お金は払わなかった。

○昭和十八年四月二十日、三個大隊編成に改編。

・南京から列車で上海へ移動した。

○昭和十八年七月、上海「ウースン」出発

・行き先は一切告げられなかった。
・輸送船は二千トンくらいのもので八ノットくらいで進む。駆逐艦が護衛してくれた。前の船団は撃沈されたと聞いたが、撃沈された船はいなかった。
・船酔いする者は船倉に入れられたが全く船酔いしなかったので、対潜水艦用に船にくくり付けられてあった砲のそばにずっといた。
・南十字星を見ながら南支那海を進み、食事も運んできてくれるので、この時が軍隊生活の中で一番のんびりしていた。大きな声で映画の歌を歌っても誰も怒る者がいなかった。

○昭和十八年八月八日、サイゴン上陸。
【※昭和十八年八月二十九日?】
・港につくと、上半身裸のイギリス兵の捕虜が使役の作業をしていて、それまで白人がそんなことをしているのをみたことがなかったので、「あー、えらいもんやなあ」と思った。
・サイゴンには四十日ほどいた。

○昭和十八年九月、カンボジア・プノンペンへ。

・当時はプノンペンまでの列車がなかったので川舟で輸送した。
・プノンペンに二・三日いて、それから列車でタイへ。
・列車は貨車で大砲の下に寝ていた。
・バンコクに駐留。【※野砲兵第二十一連隊第二大隊はインパール作戦不参加】
・後続部隊の面倒を見たり、タイには不穏な空気が流れていたので街中を大砲をひいて行進した。
・ビルマに行くと死んでしまうと思ったのか、タイで行方不明になる兵が何人もいた。四中隊からも二、三人いなくなった。
・タイにいるときはビルマの状況は知らなかった。タイ人にビルマに行くと言ったら「かわいそうに」と言われて「えー」と思った。
・あんな悲惨なことになるとは思わなかった。

○昭和十九年二月、英ウィンゲート旅団が降下。これに対応するために各部隊が寄せ集められる。ランパンからシュエボ、マンダレーを通過してビルマへ一千キロ歩いて入った。
【※昭和十九年四月九日~五月十二日まで、第二大隊はモール地区へ降下した英空挺部隊への砲撃を行う】

・大砲を発射するとすぐに位置がばれるので、一発撃つたびに位置を変えた。
・飛行場を攻撃。降りてくる飛行機を狙ったがおそらく当たらなかったと思う。
・一日に五発の弾しかなかった。
・攻撃は全て夜。昼は休養ばかりで、中国戦線のように寝不足になることはなかった。
・ビルマにきてからは三一式山砲を使っていた。照準器がなく、適当に角度と方向を決めて撃っていた。砲は牛車に乗せてはこんでいた。牛舎は大変役に立った。
・敵と味方の間に敵が落とした落下傘が落ちることもあり、命がけで取りに行った。その近くには地雷が仕掛けてあるので、ヒモをつけて引っ張って爆破した。
・負傷者や患者をトラックにのせて後方へ送りだしたら、そのトラックが敵にやられて焼けてしまったこともあった。

・その後チンドウィン河の渡河点カレワ(kalewa)に行く。
【※昭和一九年五月、第二大隊に急遽インパール作戦参加の命令が下る。】
・山砲から九五式野砲に装備が変わった。
・カレワで野砲を上向きに据えて敵の対地攻撃機を撃ち落とそうとした。当たらなかったが、撃てば敵機は高度を上げた。
・一度日本の飛行機が十機ほど爆撃に来た。しかし、目の前で二機くらい撃ち落とされた。
・味方はどんどん後方に下がってきた。
・中国では火葬していたが、ビルマでは火を焚くと敵機に見つかるので死体はそのままにしていた。
・ご飯を炊く火を起こすのに砲弾の装薬をつかっていた。

・病気で食事が出来ずに行き倒れる人が多かった。
・マラリアが酷くて脳症になって頭がおかしくなる人もいた。夜騒いでいて「これはあかんなあ」と思っていると、朝に死んでいる。
・自殺する人もいたが、人間は苦しい時になると自殺しない。戦場では生きれる限り生きようと考える。
・病気で二回入院した。一回目はカレワでマラリアに罹患し、動けなくなって病院にかつぎこまれた。
・病院は屋根が椰子の葉で、床が竹でこさえてあった。
・かつぎこまれると死体をどかせた跡に天幕を敷いて寝た。
・軍医も衛生兵もいない。食糧を持ってきてくれる人がいない。おかゆなどを作ってくれるが取りに行けなかった。
・何日かおきに、「トラックに乗れ!ここにおったら死んじまうぞ。」とトラックがやって来るが、病気でトラックまでたどり着けない。なんとかたどりついてサガインまで下げてもらった。

・サガインの病院に着くと師団長がきており、お菓子を貰った。
・師団長が帰ると集合させられ、歩ける者と歩けない者に分けられた。熱発でフラフラしていたので自分は歩ける者なのか歩けない者なのか聞いてみると、脈を取られて熱を計られてから歩けない者とされた。
・サガインの野戦病院も閉鎖するので、歩ける者には二日分の食糧を渡して原隊を追求させ、歩けない者は汽車に乗せてラングーンまで退がらせた。

・ラングーンで初めて看護婦のいる病院に入院。
・看護婦さんは年上のおばさんばかりで恐かった。
・病気が治ってから原隊を追求することになった。もう鉄道は使えず、トラックを乗り継ぎ途中で食糧を貰いながら中隊にたどりつく。

○昭和二十年三月二十日

・第二大隊はマンダレー南東50キロ、ミンゲ河近くのタモクソという集落に展開。
・マンダレーから一五師団司令部が脱出してきていた。
・朝、敵の戦車がやってきてタモクソ集落を包囲した。
・一時は玉砕を覚悟していたが中隊の九五式野砲で二台か三台の戦車を撃破して、師団は危機を脱する。
・それから砲を爆破して夕方に撤退。照準器だけ取り外して池に捨てた。
・この時の戦闘が一番印象に残っている。
【※この時、四中隊が二門の九五式野砲、第五中隊が一門の九五式野砲の合計三門で迎え撃つ。六中隊は十榴を一門装備していたが、タモクソとは別の場所で戦闘をしていた模様。タモクソの戦闘で大隊主力は賞状(方面軍から?)を貰っている。】

・その後はモチ街道(mawchi タングステンのとれる鉱山があった。ケマピューの西。)で戦闘を行う。
・三十七ミリの速射砲で敵戦車を撃破した。
・正面からでは撃破出来ないので、曲がり角に隠れて布陣して戦車の後ろを撃った。一発撃つとすぐ逃げた。
・第四中隊と他の中隊の生き残り、それぞれ四十名づつで戦っていた。
・戦車が来ると対戦車火器を持っていない歩兵が逃げてしまう。
・モチ街道に敵が侵入してきた時に、九州の兵隊が迎え撃って何マイルか押し返した。九州の兵隊さんは勇敢で感心した。
・敵は人の命を大事にしていて、壕を通過する時もいちいち手榴弾を投げ入れて確認してから通過していた。
・ラングーンで作られた鉄パイプ製の即席の迫撃砲を使用していた。弾は鋳物で、装薬は袋に入ったもの。たまに筒の中で砲弾が破裂してバナナのようにさけてしまうような代物だった。
・ビルマでは食糧が後方から送られて来ることはなかったが、餓死するほどの状態ではなかった。
・ここでもマラリアに罹った。

・モチ街道での戦闘の後、飯盒に一杯の米を貰い中隊と別れて他部隊の人と三人でチェンマイに後退。
・途中で見たこともない部族に出会ってゾーッとした。

○昭和二十年八月十五日、終戦。

・終戦を知った時は「やれやれ、これでやっと帰れる」という気持だった。
・タイ・ナコンナヨーク(※Nakornnayok:タイ中部)の収容所で捕虜生活。
・収容所では量は多くないが三食ご飯が出て、たまに使役に呼び出されることがあるくらい。
・収容所ではバナナの繊維で草履を作ったり、山に行って木を倒してお尻を拭く紙を作ったり様々なことをした。
・イギリス兵の姿はほとんどみなかった。
・使役も炊事の手伝いに行かされるくらいで、食べ物を帰り際にもらった。
・日本に帰るのが嫌だと言って収容所から出て行ってそのまま帰ってこない人もいた。

・関西出身の兵士が集められてバンコクから日本の商船に乗船。
・常日頃威張ってた他部隊の人が袋叩きにあっていた。
・船に乗る前に米軍に戦争中にどこにいたか調べられた。

○昭和二十一年七月、鹿児島に上陸。列車で自宅へ着き、復員。


●終戦時陸軍上等兵。

□参考文献
・「防人の詩・悲運の京都兵団証言録・ビルマ編」/京都新聞社/1983年
・「昭和13・8・5~20・8・15第十五師団各部隊略歴」/15D司令部/防衛研究所蔵
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