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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
保存の会最年少メンバーの「青春18切符 列島縦断 聞き取りの旅」が、2011年3月10日(木)に伺った証言の概要です。
この日のお一人目の山路金八さんのご近所の戦友の方で、山路さんと同じだったバターン作戦中心の内容だそうです。

◆◆◆

◎宮崎義高さん(91)
取材日:平成二十三年三月十日
所属:歩兵第三十三連隊(垣6556)第十一中隊
兵科:歩兵(擲弾筒)
戦地:ルソン島(レガスピー~バターン半島)~台湾


○大正八年九月、三重県生まれ。

・小学校卒業後、名古屋の大同製鋼(※現大同特殊鋼株式会社)に勤める。
・徴兵検査は甲種合格。

○昭和一五年(一四年?)、歩兵第三十三連隊第十一中隊擲弾筒班に入営。

○昭和十六年十二月十二日、レガスピーに敵前上陸。

・上陸してみると、周辺に誰もいなかった。

○昭和十七年二月~、バターン半島攻略戦。

・米軍が戦車や飛行機が攻めてきて大変だった。
・日本軍は大体夜に攻撃する。
・アメリカはすごい兵器を持っていた。小銃でも機関銃でも違った。
・九州から来ていた部隊がバターン半島に一番乗りをしており、戦闘でかなり戦死者がでていたようだ。
・擲弾筒は戦闘には間に合わないのであんまりつかわなかった。小銃を使った方が早い。
・日本の兵隊もよく戦死した。遺体を見ると「ナンマンダブツ」と唱えていた。火葬する暇はないので遺体はそのまま。
・食糧には乾パンがあった。その他にフィリピン人が米を炊いたのをくれたり、それを取り上げたり、豚や鶏を殺したりして食糧を得ていた。
・後方からの補給はほとんどない。フィリピンが頼り。

○昭和十七年四月九日、バターン半島の米軍が降伏。

・はじめのうちは投降してきた捕虜と握手したり、お互いに仲良くしようという感じだった。
・米軍が降伏した後に捕虜の監視もした。捕虜にはフィリピン人はおらずアメリカ人ばかりで軍人以外の一般の人は解放した。
・学校のような所へ連れて行って監視した。
・捕虜の監視をしていると捕虜と仲良くなる。
・自分が監視している時は捕虜はそんなに死ななかったと思う。
・反抗的な捕虜はいなかった。
・バターン死の行進には参加しなかったが、捕虜がいっぱい死んだらしいということは噂で聞いた。自分が監視している間にはそんなことはなかった。
・九州の部隊が捕虜の番をした時に、バターンの戦闘で大勢戦死しているから死の行進をさせたらしいということも後で聞いた。


・夜、歩哨にでるとフィリピン人も日本軍が怖いのか起きている。しだいに、子供とかが煙草やヘビを焼いたものをもってやってきて物々交換したりした。
・金(軍票)は使わないし貰わなかった。
・フィリピン人と麻雀をしたこともある。仲良くはやっていた。
・治安も悪くなかった。
・日本の兵隊は横暴といえば横暴だったけれど、戦争のために一生懸命だった。

○昭和十七年後半?、フィリピン戦の後、台湾高雄に移動。
【※違う部隊に転属した?】

・空襲があってロッキードが、かなりの高い上空を飛んでいた。
・塹壕を掘ったりしていた。

○昭和二十年八月十五日、終戦。

・なんとも言えない気持ちになった。
・アメリカ軍がすぐやってきて、高雄の埠頭にある倉庫に収容された。
・中国軍がやってきていたら報復されていたかもしれない。

○昭和二十一年、アメリカの貨物船で広島の呉に入港。そこから汽車に乗り復員。

●終戦時陸軍上等兵。

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