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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
山陽キャラバンが12月15日(木)に伺った証言の概要です。

◎三好正之さん

1917(大正6)年10月30日生まれ
当時の本籍地 山口県

1936(昭和11)年 日本医科大学進学、陸軍委託学生に。
 国民皆兵で覚悟は決めていたので、どうせ行くなら早めにと考えた。
 委託生には長期休暇に士官学校の様な授業が行われていた。
 太平洋戦争開戦の日、公衆衛生の教授が泣きながら感激して授業をしたのが忘れられない。
1942(昭和17)年9月 日本医科大学を半年の繰り上げ卒業
 ※この年の4月に結婚
1942(昭和17)年10月 陸軍軍医学校乙種学生(第23期)
 軍陣医学を1年学ぶ
 外傷の治療、毒ガスの扱い、公衆衛生
 凍傷の治療、マラリア・テング熱・コレラ・チフス・出血性腸炎の治療
1943(昭和18)年11月 陸軍軍医学校卒業

同月 36師団(雪)歩兵224連隊付きに、上海へ部隊追及のため出発。
 軍医学校卒業時に希望地を聞かれる。
 小学校5・6年の時に溺死しかけたことがあり海は嫌だったので北支を希望する。
 36師団は希望通り北支に展開している部隊だったが、直前に南方への転進命令が出て上海に待機をしていた。
1944(昭和19)年1月10日 上海出発→宇品→高尾→マニラ
○上海に着くと「本隊は昨日ニューギニアに向かって出ました」と言われる。
 船の手配を待ち傷病などで一緒に出掛けられなかった兵200名を連れて出航。
 段々寒くなるのでおかしいなと思っていると北朝鮮を経て宇品に。
 船の機関が故障したということで2週間ほど待って秋津丸に乗り換え。
 台湾・高尾を経てマニラへ。
○バシー海峡では西方2キロほどに潜望鏡が上がって潜水艦がいるらしい。
 輸送船から野砲を撃ったらその夜は何も無かったが翌朝1隻が撃沈される。
○出征の際、家内が干しダコを千人針の中に入れてくれた。
 舟が沈没した時食べるようだったが、慶応出のK少尉がそれを見て、
 「軍医さんは金持ちだ、金蔵建てた、蔵建てた」(♪黄金虫)
 と歌い皆で食べた。船倉だから機雷でやられたら一番最初に死ぬ。
 死ねばもろとも。

1944(昭和19)年2月20日 マニラ着
○マニラホテルに宿泊
 砂糖、アイスクリーム、肉、魚となんでもある、キャバレーに行きこの世の極楽。
○参謀から「船は1隻もおらん、おっても沈没される、着いたら着いたで食糧はない、医薬品はない、衛生材料もない。100%死にに行くみたいなもんじゃからマニラの部隊に転属しろ」と言われる
 こんな良い所なら居ても良いなとは思ったけれど、「部隊で命令を貰った以上何が何でも行く」と言った。
 「行ったら必ず死ぬ」と散々言われたが断った。

1944(昭和19)年3月21日 ニューギニア・ホーランジアへ
 軍用機でセレベス→アンボン→と乗り継ぎ、アンボンからは海軍飛行機を見つけ(呑龍)、いやがるのを無理矢理ホーランジアへ飛ばせた。
1944(昭和19)年3月24日 サルミの本隊に到着
 10日ほど東京の情報を知りたがる師団長の話し相手になる。

1944(昭和19)年4月21日 米軍ニューギニア・ホーランジアへ上陸
○300キロ離れたホーランジアへ応援に行くことになり5月初めに出立する。
 2週間分だけの米を靴下に詰め、肉缶や鮭缶を少し。
 大きな河が幾つもありワニもいる、40~50キロの糧秣や薬品を持っての行軍。
○1週間ほどたったところで自分達の部隊のところにも米軍が上陸。
 余所を助けに行くどころではなく引き返す。

○ホーランジアに最後までいた部隊(第6飛行師団など)が撤退してくる。
 東大医学部卒で軍医学校同期のN中尉はふんどしもなく裸足で、落下傘の端を身体に巻いていた。
 戦後ビキニで被爆した人たちの治療にあたり有名になった。

1944(昭和19)年6月20~25日 入江山の戦闘
 弾の雨あられ、弾が赤、青、黄の棒のように連なって来る中を夜襲する。
 隣にいた内貴さんの左大腿に迫撃砲の破片が直撃して大腿骨が折れた。
 「おれは小隊長だから下がらん」と言うのを担架を作り、
 「少尉のくせに、おれは中尉だ」と無理矢理後送させた。

1944(昭和19)年7月
○斥候が米軍戦車にやられ生き埋めになっているので行ってくれと中隊長に言われ、衛生兵1名と兵長だけ付けられて行く。
 海岸線から200mでジャングルは膝まで入るような湿地帯、さらに200m入ると丘陵でそこから急に4000m級の山々になる。
 木と木の間に真っ赤な顔、猿が居ると思ったら米兵で、3~4mの距離で目と目があった。1秒ほど睨み合って「敵じゃあ」と叫ぶと兵長が38式小銃を一発。
 衛生兵は武器を持っておらず自分も短銃だけ、米兵は4名で皆自動小銃を持っている。
 米兵は逃げたが息だけ出来るように伏せていると、100mぐらい戻ったところからありったけの弾を撃ち尽くして帰っていた。
 その音で軍医がやられたと思って6人ぐらい助けに来てくれた。
○軍医だったが現場主義で兵と寝起きを共にしていた。
 信頼感を得て何でも相談を持ち込まれたためこういう時は行けとなって仕舞った。
 常に第1線にいたから兵の行動や考え方、色々な問題が即座に伝わってきた。

※5~8月の戦闘で6回戦闘に参加した。
 艦砲射撃、迫撃砲、機関銃、爆撃と皆経験。
 東北の部隊は勇敢で粘り強かったが、日本軍は小出しに1個中隊、1個大隊と送っては全滅を繰り返し、この期間に2/3が亡くなった。

1944(昭和19)年10月頃から 米軍との戦闘は無くなり自活生活に。
 ※米軍の主戦場は比島に移った。
○木の根、草の芽を食べる。
 芋を栽培、サツマイモの葉を主食に、小芋が副食。
○サゴヤシの中はでんぷん質で、中心にウジがいて蛋白源となりおいしい。
  ※海岸線に生息するココヤシは迫撃砲や爆撃ですっかり無くなっている。
   サゴヤシはジャングルの奥の湿地帯に生息したので残った。
○フィリピンに移動した米軍1個師団が砂をかけて隠していった食糧を野豚が掘り返した。
 ベーコンや肉の缶詰があり、「ルーズベルト御馳走」と呼んでこれに随分救われた。
 「軍医殿、石鹸がありました」と持って来られたのがチーズの大きな缶詰で、現地の川の上流に大挙上がってくる1cmぐらいの小さなカニ(コ)を飯盒に汲み取り、サゴヤシでモチを作って炒めたのが本当においしかった。
○マラリアは頻発、41度ぐらいの発熱、自分もかかった。
 薬は全然ない、薬を独り占めしている軍医がいて帰りの船で海に落とそうと騒動になったが、准尉がわしを代わりに落とせと頑張って事なきを得た。
 湿地帯だから病気の巣窟。
 サゴヤシの汁を静注してこれは幾らか効果があったかもしれない。

1945(昭和20)年8月
○敗戦は1週間ぐらいしてから分かった。
 無線が爆撃でやられていたので遅れたが、フィリピンから日本軍の飛行機が伝達に来たと聞く。
○泣いていた人もいたが、これで日本に帰られるかもしれないと言う一筋の希望の光の様なものが湧いた。
○軍旗を焼く、竿先端の金属の部分(※菊の紋章)は手榴弾で破壊した。
 紫の房の一部をこっそり持ち帰った者がおり現在山形の自衛隊に飾られている。
1945(昭和20)年9月8日 武装解除
○師団命令が出て自ら武器をまとめ大発に乗せて海に沈めた。

1946(昭和21)年6月11日 リバティー船に乗船
1946(昭和21)年6月27日 復員
 生後7ヶ月で別れた長男がぽかんとしていた。 
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