FC2ブログ
あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
山陽キャラバンの12月14日(水)の様子です。
メーリングリストより転載します。

◆◆◆

本日は新山口から厚狭を経て美祢(みね)線へ
車内は殆ど登校の高校生達ですが、窓ごとに普通の家のようなカーテンがついていて、深く差し込む朝日が眩しいのでそれを閉じるのが毎朝の習慣らしく、初めて乗る者はどこで降りるのかハラハラします。

美祢駅では正隆寺の前御住職、波佐間さんが迎えてくださいました。
波佐間さん達は戦後40年、50年、60年と体験集を発行、現在もこれが最後と美祢市中に呼びかけて制作中で、今日はその中から中島速雄さん(93歳)のお宅に伺いました。

お元気な90代に驚かなくなっているとは言いながら、中島さんの若々しさはこれはご本人でない方が迎えてくださったかとあたりを見回すレベルで、ご一緒した事務局の坪井さんが息子さんに「お顔が似てらっしゃるけどご兄弟ですか」と言ったほど。

中島さんは213連隊、なぜか山口で水戸連隊の方にお会いした訳ですが、慣れない感じの兵たちが次第に荒れていく様子が鮮明で、最後は見習士官を兵たちが袋叩きにするようなお話も。(註:ご本人が参加された訳ではありません)
ビルマに渡られますが1942年12月に満期除隊。
その後この部隊はインパール作戦に投入されます。

「私は悪運が強いんですよ」と中島さんが何度も何度もおっしゃっていたのですが、お宅を失礼した昼食の折、坪井さんが「悪運というのは他の言い方はないのですかね」と話題に。
「『運が良い』でいいんですよ。それを悪運と言われるのは亡くなった方にすまない気がしておられるからなんでしょうね」
と龍谷大学で教鞭もとっておられた“ぜんじゅうさん”(地元の方が波佐間さんを呼ぶ敬称)らしいお話。
昨日の横橋さんの事を書きながらも他人でも「運が良い」と書くのは難しいと感じたわけですが、こういうふうに言うと優しく柔らかく聞こえるものだとちょっと感じ入りました。

さて、季節が悪いのか、日々そうなってきているのか、証言者の病魔にさらされている今回のキャラバン。
午後も今キャラバン3人目の入院で、楽しみにしていた100歳の方の聞き取りが飛んでしまいました。

時間が空いてしまった事を心配してくださって、午後は炭鉱の跡地と、そこで働かされていた外国人の捕虜収容所跡に連れて行って頂いたのですが、
「他に鍾乳洞もありますよ」
「いえ、炭鉱に」
「水族館はどうですか」
「いえ、いえ、ぜひ炭鉱に」
みたいな会話を繰り返して炭鉱跡地へ。
そこから昔捕虜が歩いた旧道を通って収容所跡地へ。
ここにはコレヒドールの米軍捕虜288名とシンガポールなどの英軍捕虜184名が収容された場所です。

亡くなられた方は数名だったのですが、帰りの列車の車両が2台で1台は殆ど白木の箱が乗っていたという証言があり、戦後問題になります。それはここに来るまでに亡くなられた方達の遺骨で、捕虜の中にイギリス人の軍医がいて「収容所で亡くなった方は病気で日本には薬がなかった」と証言され多くの関係者が戦犯を免れたというお話でした。
しかし所長はその後三池炭鉱に移りそちらでの出来事で死刑となったそうです。

戦後50年の証言集の売り上げで作られた記念碑が立っており、捕虜だった方やその子供さん達も訪れ、来夏も予定がおありとのこと。
山の裏側に700名の朝鮮人が働いていた炭鉱があり、次はその碑を建てなければと話される“ぜんじゅうさん”でした。

明日は阿知須市で三好先生(ニューギニア・軍医)の聞き取りです。
スポンサーサイト



コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://senjotaikenhozontabi.blog2.fc2.com/tb.php/735-b4ba59f4
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック