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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
第2回福島キャラバンが11月25日(日)の午前に伺った証言の概要です。

◆◆◆

◎穴沢初男さん(88)
・取材日:平成二十三年十一月二十五日
・所属:歩兵第六十五連隊(鏡6805)第二大隊六中隊~第二大隊医務室
・兵科:歩兵(衛生兵)
・戦地:中支

○大正十二年五月二十八日、福島県生まれ。

・農業をしていた。

○昭和十八年五月か六月、徴兵検査。

・第一乙。

○昭和十八年十二月二十日、会津若松歩兵第六十五連隊第六中隊に入営。

・最後の面会の時、戦友はぼた餅を持ってきてもらっていてうらやましかった。

○昭和十九年一月早々、中国へ出発。

・汽車で博多へ行き、船で釜山に上陸。そこから列車で中国へ。
・同年兵は二百名くらいいた。
・現地で一カ月間教育を受ける。本当は一年間のはずだったが作戦のため速成教育だった。
・揚子江の川べりに竹を立て横にして(中国人を)磔にして鉄砲の先に剣を付けて二回位刺した後、揚子江に投げていた。
・教育隊の中で一番射撃の成績が良かった。一期検閲が終わる時の成績もだいぶ良く、みんなの代表として連隊長に申告した。
・衛生兵に選ばれて、野戦病院で一週間だけ包帯の巻き方など衛生兵としての教育を受けた。

○昭和十九年四月~、大陸打通作戦。

・作戦間は大体の医務室にずっといた。
・負傷兵の手当ては全部先輩がやった。初年兵だったので小使いみたいなことをしていた。
・軍医が一人いて、その指示で動いていた。軍医の下で下士官が薬剤の管理や手当、その下の衛生兵は言うなら助手みたいなものだった。
・衛生兵は拳銃を持つが、前線には渡ってこなかったので持っていなかった。たまに先輩から「お前撃ってみろ」と渡されたが全然当たらなかった。
・包帯や消毒薬を入れた薬嚢をもっていた。
・荒療治で助かる人も死ぬ人も何人もいた。一番多いのは脚気、マラリヤ。
・薬もいろいろあった。ヨーチンは飛び上がるくらい痛い。下手に「痛い」と言うと「死んでもいいのか!」と気合いをかけられる。
・体の具合が悪くなったり弾に当たった患者が出ると担架に乗せる。担架を運ぶ兵隊も疲れきっていて、夜中に担架をドスンと落とすこともあった。
・一番最初の戦闘の時は「戦争ってのはおっかねえもんだなあ」と思った。
・”きんぎょせき”、”ぶんすいれい”の戦闘が一番印象に残っている。すごい戦闘だった。
・その近くの”すいこうざん”は砂糖を集荷していた所で、砂糖をいっぱい舐めた。うまかったこと。「俺も、俺も」と言ってみんな舐めたり靴下に入れて背嚢にくっつけたりしていた。あれは愉快だった。
・移動には作戦地図と磁石と支那人の案内役の三つを使った。これが大変だった。
・空襲がおっかなかった。二十ミリくらいの機関砲で撃ってくる。煙をあげると飛行機が飛んでくるので気を付けた。
・昼は米軍機が飛んできて機銃掃射でバラバラやられるので夜に移動。夕方に出発して朝まで歩く。朝になると休憩。朝になって到着してみたら出発点に戻っていた、なんてことがあった。
・普通の民家で寝泊まりする。休憩が終わると家を破壊したり燃やしたりして行った。
・糧秣はだんだん来なくなって稲刈りをして籾付きをやって食べた。
・疲れきって皆についていけなくなって手榴弾で自爆した兵隊も何人かいた。
・戦死すると火葬は考えられないので、そこらへんの椅子を台にして円匙で腕を切断していた。片腕は戦友が持って歩き、状況が良くなると燃やしていた。
・一緒に入隊した戦友が死んだ時は悲しかった。自分もこうなるかと思うとさびしくて悲しかった。
・捕虜はいっぱいいた。殺されるよりはいいと思ったのか、むこうから手をあげて投降してきた。麻縄を付けて逃げられないように縛っていたが、どうやって麻縄を切るのか、逃げる捕虜もいた。
・中国人は戦死した人の収容はあんまりやらない。その辺に民間人や兵隊の死体が転がっていた。夏の暑いときだったので鼻や口からウジが出ていて、今では考えられないようなひどい別世界だった。

○昭和二十年八月、終戦。

・ 六十五連隊が全員集まって石油をかけて軍旗を燃やした。この時は残念で涙を流した。これほどつらい思いをして日本は負けたのかと思った。
・反転している時もまさか負けているとは思はなかった。
・武装解除のあとに捕虜生活。仕事も何もなかった。
・食べ物もは最初は支給されていたが段々こなくなり、夜に外に出て菜っ葉をもいで帰ってきて茹でて食べていた。
・中国人は夜はほとんど外に出なかった。大分菜っ葉をむしって来た。
・寒くなってくると、燃える物をそこらへんからもってきて、囲炉裏を作って暖をとった。

○昭和二十一年六月、上海からLSTに乗船。

・中国に行く時に二百人いた同年兵が一割くらいしか残っていなかった。
・博多に上陸。戦友と鈍行の汽車に乗った。
・汽車にはぎっしりと人が乗っていてなかなかドアから入れず、窓から飛び乗ったりした。

○昭和二十一年六月二十三日、帰宅復員。

・帰ってから食べたごはんが本当にうまかった。忘れられないうまさ。

●終戦時、陸軍兵長。
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