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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
沖縄キャラバンが2月4日(金)に伺った証言の概要です。

◎糸数 雄介さん(87)
取材日:平成二十三年二月四日
大正十三年生まれ
所属:歩兵第三十二連隊(山3475)第一大隊第四中隊指揮班~第三大隊第九中隊指揮班
兵科:歩兵
戦地:沖縄

○大正十三年四月一日、沖縄県生まれ。

・沖縄一中を卒業。
・当時は若い人は兵隊に行っていたので仕事が多かった。
・親が先生に頼んだのか代用教員の仕事を探してきて、その試験を受けることになった。そして合格。
・職場はどこがいいか聞かれ、「近い所ならどこでもいい」と言ったら、津堅島の国民学校に配属されることになった。

○昭和十七年、津堅国民学校の代用教員に。

○昭和十九年十月十五日、山3475部隊(歩兵第三十二連隊)第四中隊指揮班に現役入営。
【※昭和十九年十月、三十二連隊に六百人の現地徴集兵が入隊。第四中隊で教育を行う。】

・徴兵検査は甲種合格。
・入隊する時、部落のみんなが小旗をふって送ってくれた。それから村で山部隊に入隊する者と一緒に行った。
・部隊は美里村の山城にあり、竹部隊が台湾に移動してから国吉に移った。
・そこで陣地を作っていた。最初は壕には入らないで、畜舎より悪いような仮小屋に住んでいた。
・初年兵は中頭と国頭郡出身、西原出身。
・山部隊には本島中部の者が割にいた。多くはいなかった。
・二カ月間の教育期間。
・教育隊と中隊は別だった。
・最初に入った兵舎は電灯もない。井戸もない。トイレも床もなんにもない。
・窓も釘も板も使っていない。古年兵が何からなにまで作っていた。
・床も丸太。その上に蚊帳をおいていた。板一枚もない。
・中隊の幕舎も同じ作り。
・最初は雑兵の集団とはこんなもんかと思っていた。後から戦場とはそういうものかなあと思うようになった。

・指揮班には二十名くらいいたが、階級の高い人が多く、自分がしょっちゅう不寝番をしていた。
・兵舎のそばに茅葺の兵器庫があった。不寝番の時、兵器庫の前に藁を敷いて、雨合羽を借りてきて、そこに仮寝することにしていた。週番士官などの偉い人が来た時には逃げた。
・弾薬庫をのぞいてみると色々なものが置いてあった。その中にボタンを見つけて、「これはいい」と思ったが、そのまま懐に入れておくと見つかった時まずいので、近くのサンゴ礁の岩に隠しておいた。他の隊の同年兵がボタンをなくした時にそれをあげていた。
・指揮班にいたので、時たま命令で大隊本部などに行く時があった。その時にマッチなどを買うことができた。普通の初年兵とはちょっと違っていた。
・二月ごろになって面会が許可され始めると、今までボタンなどをあげていた同年兵が、家族が持ってきて余った天ぷらなんかをくれた。
・その天ぷらを上等兵や下士官にあげていた。そうすると殴られなくなる。

・不審番が居眠りをはじめる深夜二時ごろに教官がいつもトイレに行く。この時に居眠りがばれると木刀で叩かれる。
・そのうち兵舎が伊波の国民学校に移った。ここは暖かかった。
・ここで不寝番に当たった時、壁に寄り掛かって寝ていると、「こらっ!」と教官に怒鳴られた。びっくりして、「不寝番、以上ありません」と言ったら、「お前寝ていただろう」「起きております。」「それではお前はなぜ誰何しないか」「歩兵操典にそう書いてあります」と答えた。
・歩兵操典には、「夜間近づく者があるならばよくこれを確かめよ」と書いてあるが、「何メーターまで確かめろ」とは書いていなかった。
・教官は「そうか、じゃあ毎日俺の顔もこんなに近くないと分からんのか」と言ってきたが、「いや、よくわかりかけていた時に怒鳴られたんでありますから」と言って逃げた。
・教官はそのことを楽しんだのか、翌日「誰か初年兵で腹が減った者はおらんか」と言ってきた。それに手を上げるのは自分以外にいないと思ったのだろう。手を上げると、「昼飯の残りを食え」と言うので食べた。食べ終わると教官がやってきて、「お前はこれをよく確かめたか」と聞くので、「いえ、命令ですから確かめておりません」「お前命令でご飯食べるのか」「それは言葉のいい違いであります」。教官は笑っていた。それで教官と仲良しになった。

・ある日中隊に行ったら両肩に靴下を縫い付けてあった。ひざに縫い付けてある。かっこ悪い。なんでこんなことをするんだろうと思っていたら荷物を担ぐ時に方が痛まないで済むからだと考えた。
・「軍隊は補給がきかないからそうしかならないのかなあ」「前線というのは違うんだなあ」と戦争が始まる前に思った。

・山形の部隊だったので言葉が違った。山形の人が「んだ」といった時に「はい」といっているのか「いいえ」といっているのかよくわからなかった。
・教官は陸軍士官学校を出た優秀な人だった。現地徴集兵には小学校を出ただけで読みかきが出来ない人が多かったので、軍人勅諭を兵隊に書かせて覚えさせていた。
・ある兵隊に、「軍人勅諭に読みがなをつけてくれ」と頼まれたことがあった。漢字にひらがなをつけてあげると、「これではいかん」と言われた。その兵隊はカタカナしか読めなかった。しかたがないので、ひらがなの上にさらにカタカナをつけてあげたが、これには思わず笑ってしまった。
・読み書きのできない人は、軍人勅諭をとりあえず読めるようになっても、言葉の意味が結局分からなかった。教官が「午前中ここまでは覚えろ」と言うが、覚えられない兵隊は飯を抜きにされた。

・軍隊では腹が減る。一日中食べ物のことだけ考えていた。
・そんな中の昭和二十年の正月、「明日はごちそうがでるからな」と言われた。食事を楽しみに待っていると、食卓に藁で包んだ大きいものが出てきた。これはいいなあと思って開けてみると、中には豆が入っていたが、腐っていた。
・当時の沖縄の人のほとんどが納豆を知らなかった。大半は無理して食べても食べきれずに捨てていた。
・ちなみに相撲を知っている人も沖縄にはほとんどいなかった。

・日曜日、「薪を取りに行かないか」と班長が言った。「中隊から離れられるなら良いや」と思って、自分と同年兵と班長の三名で行くことになった。取りに行く途中で班長が自分の同年兵に会いに行ってしまったので、二人で薪取りをしていた。
・そこを女性が通りかかり、同年兵が「姉さん食べ物ないか」と言った。すると「あるよ兵隊さん」といって腰にぶら下げた籠からイモをくれた。

○昭和二十年二月十一日、第三大隊が南方に転出し不在だったので、新たに第三大隊が新設される。そのために第一大隊第四中隊が第九中隊に、第二大隊第八中隊が第十中隊となり、さらに衛生隊関係者などが集められて第十一中隊が作られ、第三大隊に加えられる。

・戦闘前に「おかしいんじゃないかな」と思った人がいくらでもいた。戦闘後そうした人達は全部一人も生き残らなかった。人間とは妙なものだと思う。

・支那事変で戦死した人の墓標の前で、一生懸命手を合わせて拝んでいる人がいた。その人は、「私はここ(糸満)の土になるから、今ここで兄弟の縁を結ぼうとしている。」と言って木製の墓標を叩き割り、それを燃やして飯盒で飯を炊き(食べて?)、「これで兄弟の縁を結んだ。」と言った。「この人はひょっとすると危ねえなあ。」と思っていたが、やっぱりその人はダメ(戦死)になった。
・ある人に、胸につけていた名札を「お前のは汚い」と言われてはぎとられたことがあった。そしてその人はどこからか知らないが白い布を持って来て、「これにきれいに書け。人間はいざという時にはきれいにして死ななければいかん」と言ってそれをくれた。これで済むかと思ったら、編上靴をだいぶ盗んできて「俺の形見だからもらってくれ」と言って配り始めた。配り終わるとまた何かを取りに行ってしまった。再び戻ってくると、盗んでいるのを見つかったのか、顔が変形するくらい殴られていた。この人もおかしいなと思った。
・ある夜、ある人に起こされた事があった。「どうしたか?」と言ったら、「僕の枕元に餅が三つ飾ってある。食べろ。」という。一つとって食べ終わるとと、「全部食え。」という。全部食べ終わると、「お前、俺の家内を知ってるか?」と聞いてきた。「知ってるよ。あの中隊の前の家の娘だろう。」「うんそうだ。俺が死んだら彼女に俺の遺骨を見せてくれ。」「そりゃあおかしいでしょう。敵も来ない、戦も始まらない。それなのに俺は死ぬ、あんたは遺骨を預かれ。こんな話はないでしょう。」。その人は「いや、お前は死なない。」といった。この人もおかしい。
・部隊の豪に入る時、いつもタイミングがあって、ちょうど豪から出て行く隊長当番の上等兵と会っていた。その上等兵は「私は大阪に薬店を持っていて、従業員も二・三十名いる。だから戦争が終わったら一緒に働こう。お前大阪に来んか。もし気が向いたら俺の妹を貰え。」と言う。当時は二等兵だったので「いいですよ」としか言えなかったが、翌日また会うと「俺はこの土地の土になって帰れないだろう。だから昨日の話はなかったことにしてくれんか」と言う。また「いいですよ」と答えておいた。するとさらに翌日また同じ話をしてきた。そしてその翌々日も同じ話をしてきた。これもおかしい。


○昭和二十年四月一日、米軍沖縄本島に上陸。

・米軍の船がたくさんやってきても、誰も壕に入ろうとしない。じめじめしているから嫌がった。
・中隊長は「米軍と日本軍の戦力の差は十七倍ある。相手は壕の入り口の足跡もわかるんだよ。壕に入れ。」と一生懸命。ところが兵と言うものはじめじめしているから外にいる。壕に入ろうという気もしない。
・兵隊は軍艦がやってきても軍艦が上陸してくるわけじゃないし、上がって来るのは人間だから、人間同士で戦えばいいじゃないかくらいのことしか考えない。壕になかなか入らなかった。
・ある日敵の巡洋艦か何かがきて、照屋の部落を一斉射撃した。終わると部落は無くなってしまった。それからみんな壕に入るようになった。

・四月の末ごろから戦況が悪くなった。

・鉄砲で相手を殺しても見えない。
・九九式短小銃を使っていた。渡されたが、訓練では五発の実弾射撃しかしなかった。
・射撃は戦場ではたくさん引き金をひいたが、全部夜で発火点しか見えない。誰の弾が当たったのかさっぱり分からなかった。
・切り込みは全部夜。昼間やったら五分も持たないだろう。
・「とんぼ」観測機が回っていたが、撃ち落とすゆとりもなかった。
・防暑服に鉄かぶと。
・鉄かぶとに弾が当たったらいいかなあと考えていた。文句なく死ねる。
・日よけは好き勝手。
・地下足袋は一足くらい。普通の返上化一つで終わり。
・動くのは夜だから偽装も何もしない。
・米兵は銃眼まで近寄ってきて爆雷なんかを投げる。
・食糧は携帯口糧を二日分貰って終わりだった。あとは自分で探すよりない。入った壕になにかあればいい。
・うまく米があればよかった。
・道端に大根があればかじるし、ニンジンがあれば食べるし、機微があればかじる、そういう感じだった。

・あるとき将校斥候を言いつけられた。その時は前の仕事で相当疲れており、熱を出して豪の壁に寄りかかって寝ていた。四時ごろになって隊長に呼ばれたので行ってみると、准尉が一人、下士官が二人いた。自分を入れた四名が隊長の前に並ぶと、「命令を達する。山部隊前線の敵機動部隊の戦車の集結地を探れ」と命令された。「俺の人生はこれで終わった」と思い、頭のてっぺんから胸をじーっと締め付けられるような気がした。それから、「よし、何でもいいから腹いっぱい食って死んでやろう」と覚悟を決めた。
缶詰を開けようとしたが、開けるのに手間がかり時間もないので、携帯口糧の乾麺麭を食べて、ポケットにも突っ込んで、食べながら斥候に出た。
そして145高地に行ってみると、防衛隊か何かの人がタコ壷を掘っているのに出会った。それを指揮していた将校らしき人は、どうせ兵隊にとられるなら派手なことをやってやろうと航空隊に志願して読谷の飛行場に勤務していたが、飛行場が十・十空襲でやられて補給もないので、戦車に体当たりする部隊を指揮することになったそうで、「俺の人生は七キロだ」と言っていた。「七キロとは何か?」と尋ねると、「急造爆雷の重さだ」と答えた。「かわいそうな気がするなあ、死ぬのは俺ばっかりではないなあ」と思った。
・「敵の戦車はだいたいどの辺から来るか?」聞くと「牧港らへんだろう」というので、北側に方向を変えて西原入口に行った。(一緒にいた人が?)その近くの豪に入って隊長に状況を聞いている間、豪の外に立っていると、五メートルか十メートル先に真っ白いものが見えた。「何だろう?」と思って、側にいた上等兵に尋ねると「米だ」という。「もったいないから中に入れたら」と言うと、「豪はいっぱいだ。」と言う。「それでもまだ食べられるんでしょう?」「そうだ」「どうしたんですか?」「敵の戦車が来て倉庫をぶち壊した。」「それにしてももったいないから中に入れたら?」と言うと「俺は晩飯腹いっぱい食ったよ」と言う。「こいつは俺のことを二等兵だと思って馬鹿にしているな」と思ったのでそれから黙っていたら、十五メートルくらい離れた所からコチコチ音がする。するとそこから兵隊が出てきて豪に入っていった。そして入ったかと思うとまた出て来た。その兵隊の後ろから衛生兵も出てきて、「おい。手当てするから待て」と言った。その兵隊は「もう世話にならない。あとはよろしく頼む。」と言って、また同じ場所に戻って吹っ飛んでしまった。たぶん最初コチコチ聞こえたのは手榴弾の信管が不発で、それでまた別の手榴弾をとりに豪に戻ったんだろう。「これは嘘じゃない。この兵隊は本物だ。」と思った。
・それから、そばの兵隊(上等兵?)に「我々は島尻から応援に来ているから、頑張ってくださいよ。」と話しかけたら、「南部に来てもダメだよ。戦車持って来るんだから、どうにもならん。」。とにかく勝ち目ということはゼロ。
それから豪に帰って、北に方向をとって前田の学校の校庭みたいな所に出た。すると敵は日本軍を馬鹿にしているのか電燈をつけて集結していた。それから弁ヶ岳の後ろの豪の中で連絡をして、任務は終わった。
この任務の翌日、中隊全員で切り込みに行った。

・戦争は兵隊にとってはそんなに大変なものではない。一般の人は命に関わるから大変かもしれないが、兵隊はみんな一緒で一人ではない。
・夜の戦場では爆発するのは見えるが弾丸は見えない。それでどこに何があるかわからない。だからそんなに怖くない。将校斥候の時は、わずか四名で敵の前線を探しに行ったので怖かったが、中隊全員で切り込みに行くときは死ぬのはみんな一緒で、自分には責任はない。ついていけばいいだけだから、かえって気が楽だった。
・本当に決死の覚悟が人間できるかと言ったらできないと思う。死ぬ覚悟ができる人はいない。小説家にはできるかもしれないが、実際いよいよ「お前死ね」と言われて、「死にましょう」と言うのは中々出来ない。

・隊長が儀保の十字路まで来たときに「これから中隊全員で切り込みに出かける。」と言った。「隊長は死を覚悟されておられるな」と思った。そこから二列に並んで、五百メートルくらい進んで(※)に向かう道路の脇道まで来た。そこで番号をかけると二十番で終わった。中隊には約二百二十名いたのに、後はどこにいったか分からなくなってしまった。すると隊長が、「糸数、連れてこい。」と言うので、五十メートルくらい戻ると、下士官が一人応援に来た。そこから二人でさらに二百メートルくらい戻ると、左側からガヤガヤ音がする。そこには第一小隊が負傷兵の手当てをするため右側の墓場にいて、第二小隊が左側の墓場にいた。この地域は海からよく見える場所なので「艦砲でやられたのでは」と思った。「おい!待ってくれ!怪我人が出たんだ!」と大声で言えば聞こえそうだが、先頭には聞こえなかった。
・ここから隊長を探すまでに時間がかかった。ようやく隊長を見付けて、先に行くと流れ弾が来るようになった。どこから来るか分からない。すると「糸数、背中の円匙を胸に当てろ。多少は防御になる。」と隊長命令が来た。「ありがたいな。戦場に来てこうやれとは。」感動した。
・そしてどんどん進んでいくと弾の数が増えてくる。もう立ってはダメ。匍匐前進みたいに背を低くしないとダメになった。すると教育隊の班長に「ほら糸数、姿勢高いぞ」と言われた。「弾の来る中で、よく部下の事を考えてらっしゃる。」と感動していたら、仲のいい同年兵が自分の名前を呼んできた。そして「お前、乾麺麭食わないか?」ときた。「敵の弾の来るところで乾麺麭とは」と思ったが、せっかく銃剣に乾麺麭をさして足元によこすので食べた。
・二人で食べていると側の上等兵が来て、「お前ら何しとるか」と言う。「乾麺麭食っている」というと、「俺にも食わせろ」という。その間に第一小隊は戦闘になった。
・指揮班は真ん中にいた。乾麺麭を食べ終わり、「俺らもやろう」ということになった。それからは戦闘で隊長命令も聞こえなかった。敵兵も見えず、発火点しか見えない。発火点に一生懸命撃った。すると少し静かになったと思ったら、敵の迫撃砲弾幕が落ちてきた。一秒間に何発落ちて来るか分からないが、跳ね飛ばされて地面に胸がつかなかった。これが終わると皆ほとんど消えてしまった。この時、背中をやられた。
・衛生兵がやってきて「背中を見てくれ」、「どうした」。「大きな土の塊みたいなものが背中にぶつかって、血が股間まで流れ込んでいるから止めてくれ」「わかった」。衛生兵は軍服を襟元から背中まで小さな衛生鋏でいっきに裂いた。戦場でほとんど丸裸。そして薬も十分使い、あるだけの三角巾できれいにくくってくれた。
・まだ弾が飛んできている中で、こうやってくくってくれたのは自分一人だけだと思う。弾が止んで静かになってくると、周辺に誰もおらず消えていた。
・それから教育隊の班長だった人が見えたので行ってみると、座ったまま日本刀を抜きかけて動かない。「この人戦死かなあ。」。胸に手を当ててみようとしたが、階級が違うので「バカヤロー」と言われそうで手が出せない。でも、死んでるんじゃないかなあと思うが、傷口が分からない。よく見ると左耳の上から二、三センチ血が流れている。破片が頭に入ったんだろう。遺品でも探そうかと思ったが、指の一本くらい切るのも怖くてできない。そのままほったらかしにした。

・ゆっくり後ろに退がりながら身を隠すところを探していると、見習士官と四、五名の兵隊が立っているのが見えた。兵隊のうちの一人は重傷で動くことができす、みんなでどうしようか考えている所だった。抱いて後方に退げる余裕もないし、穴を掘ることもできない。武士の情けで見習士官が首を切ろうとしたが、「俺にはできない」。結局、手榴弾を置いて引き上げた。

・自分たちも入る豪を探さなくてはならなかった。すると、ちょうど四名程入れる豪を見付けた。そこに自分と二人の衛生兵と三人で入って身を隠していた。そこに中隊一の力持ちだった体格のいい上等兵が、大怪我をしてやって来た。よくここまでやってきたなあ。そして「水がないか」という。普段から親切で、仲のいい上等兵だったので、水筒の水を飲ませた。たくさん水を飲む血が止まらなくなるので「もういいでしょう」と水筒をとろうとしたが、しがみついて離さない。
・一緒にいた田中という衛生兵の上等兵が「どうせ病院もないし見込みもないから、飲ませて出血死しようと仕方ない。飲ませ。」と言った。そのまま時間を待たないで上等兵は亡くなった。
・すると田中さんが「こんな馬鹿な戦があるかい。敵の陣地も調べない、地形も分からん、何も分からん所へただ切り込め言って。そんな馬鹿な戦があるか」と泣き始めた。
・すると、側にいた同年兵が「戦友が死んだくらいで泣く奴があるか。俺の部落は普天間だ。俺の家族の所にも敵が入っている。生きてるか死んでるか全然分からん。今はっきりしてるのは俺一人じゃねえか。俺でも泣かないのに、お前ぇ戦友が死んだくらいで泣いてどうするんだ。」と怒って、階級は違ったが大喧嘩が始まった。

・その時に「独歩患者は後ろへ退がれ」という命令が来た。自分は背中をやられただけだったので、そのまま嘉数の野戦病院へ行った。
・三日で退院。
・ガス壊疽とか破傷風にならないような治療をしてくれたが、死ぬほどの重症ではなかった。
・運と言えば運。
・医療品は不足していた。
・嘉数の病院では、自分の怪我をオーバーに表現したと思う。鉄砲を撃てる力がないから戦争をできないけれど、それほど重傷でもなかった。負傷したのが背中だったので、どれほどの怪我なのか自分ではよくわからなかった。衛生兵の手当てのおかげか破傷風にもならず、二週間くらいしたら治ってしまった。それから行動できるようになって、糸満に退がった。

・糸満では、寄せ集めの名前だけの中隊が作られ、そこに入り「切り込み陣地」といわれた陣地に配属された。
・ある日(六月二十三日ごろ)、「糸満 の敵戦車を攻撃しろ」と言う命令を受け、部下の城井という一等兵を連れて攻撃に行った。その城井一等兵が「要領よくやってくださいよ」と言うので、「お前より俺の方が要領がいいのさ」と言ってやった。すると、「敵戦車を攻撃しろと言って、手榴弾と鉄砲だけでどこを攻撃しますか?」と聞いてきた。「それはそうだ。でも、敵戦車を攻撃しろと言う命令だから行ってみるか。行けばなんとかなるだろう。」

・糸満の市街地に行ってみると、町はほとんどやられてガラ空きになっていた。「戦車はどこにいるんだろう。」二人でガジュマルの枝を楯にして、ゆっくり起こしながら前方の敵情を確認しようとしたら、敵がすぐ後にいる事が分かった。
・攻撃どころではなくなり、さんてぃんもー(※糸満市)の後ろの豪に逃げ込んだ。
・夜が明けたころになり豪から出ようとすると、米兵が4・5名歩いていたので、手榴弾を投げて豪に隠れた。
・ すると城井一等兵が出てきて「どうしたんですか。」「あっち出るなよ。米兵が四・五名歩いてきて、俺がいたずらしたから、生きてるか死んでるのかもさっぱりわからん。」「私もやってくる」「やめろ」と言ったが城井一等兵は聞かずにそのまま豪を出て行ってしまった。そしてちょうど豪の上に米兵がいたので手榴弾を投げてきた。やられたかと思ったが一等兵は生きのびて帰って来た。
・それから昼ごろになり、お腹がすいたので飯盒でご飯を炊き、ちょうど食べようかと言う時に、米軍が豪に爆雷を投げ込んだ。そのまま奥に隠れて攻撃をしのぎ、夜になってから豪にいた何名かの日本兵と共に豪を脱出して、味方の陣地へ戻ることにした。
・途中二回くらい米軍の攻撃を受けて一人が戦死。
・焼け残ったブロック塀があり、そこを越えると、4、5メートル先に米兵がいた。聞き違いかわからないが米兵は「シャーンドウ!」と叫んだように聞こえた。そのまま手榴弾を投げ込んで、爆発するかしないか分からないうちに逃げた。
そのまま逃げていると海岸の入江になっている所に出た。海岸をたどって行こうとすると、城井一等兵がいきなり背中をつかんで、「小銃で狙われているよ」と言う。「もうしょうがない。お前はここで構えとけ、俺は護岸をのぼって手榴弾を投げるからな。」と言って、護岸を上って手榴弾を投げようとしたら、その間に城井一等兵がやられてしまった。
・自分一人になってしまい、海に入って泳いで逃げようとした。そして運よく大きな岩に泳ぎついて、そこに隠れる事が出来た。ここから味方の前線まで泳いでたどり着き、聯隊本部で報告をして、恩賜の煙草をもらった。

・それから中隊に向かおうとしたが、夜が明け始めて行動出来なくなった。近くに小さな豪があったので入ることにした。
・この豪では新入りだったので一時間交代の歩哨に立てられた。
・ 歩哨に出てしばらくすると、真栄里の方から年配のおじさんがやって来た。どこへ行くのか尋ねると、「糸満へ行く」と言うので、「俺は糸満から来たが糸満には行けないよ。」と言うと、「いや、自分の家に行く」「家なんかないよ」「豪がある」「豪でどうするのか?」「真栄里は弾が激しくてどうにもならないから、死ぬなら自分の豪で死にたい。」「そうか。でも私は歩哨だから人は通さない。通ったら俺が殺すぞ。」と言うと、「通してくれ。」と手を合わせられた。 「なら行け。眼の前に戦車がおるよ。それでも行くかい?」「行く。」と言って行ってしまった。
・それから二、三分後、おじさんが曳光弾に追われて逃げ帰って来た。自分のいる陣地にもぐりこめばいいのに、隠れないで走り続けて、そのままやられてしまった。死ぬと言う人間がなんで逃げるのか、と言いたくなった。
・歩哨の時間が過ぎても交代がないので、壕の中に戻った。「俺は一時間の約束で立ってるけど、交代しないなら報告しないよ。」と言うと、三月に入隊した初年兵が、ピカピカの、偽装もない鉄かぶとをかぶってが出てきた。
・「お前その辺の草でもつければいいのに、そのままなんて殺してくれと言っているようなもんじゃないか」と叱り、その場で偽装させて、「あそこに戦車がおるだろう。見てみろ。」と言うと、初年兵が「見えない。」と言って、壕から急に頭を出そうとしたので、「戦場で急に首を出す奴があるか。もっとゆっくり出せ。」とさらに叱りつけ、また戦車がいるか聞いてみると「いない」と言う。それで自分が見てみると戦車が見えた。これでは話にならない。この初年兵と話しているうちに米軍の砲撃が始まって、胸を負傷してしまった。
・するとそこに初年兵の同年兵がやってきた。その同年兵が初年兵に方言で、「お前何するんだ。」と聞くと、初年兵は「戦車がいるそうだから、戦車攻撃に来た。」と答えた。そして爆雷も持って来た。
・ これを見て、「この真昼間に戦車を攻撃するなんて馬鹿みたいなことやるのかい。どうせ駄目だよ。夕方とかならできるけど、真昼間に戦車に十メートルちかく 寄れるはずがない。爆雷は二・三メートルも投げられないだろうからその辺に隠れておけ。」と言ってから、壕の中に入って怪我を治療してもらった。
・結局。初年兵とその同年兵は、二人で戦車攻撃に出て行った。その後、一人が火炎瓶を持って壕に戻ってきて、隊長に「お前は戦友を置いて帰って来たのか。」と怒られていた。
・それから午後四時を過ぎて、米軍の攻撃が終わって日本軍の攻撃が始まり、中隊にも戻れず困っていると、ちょうど戦友が通りかかったので、一緒に窪地を通って、真栄里まで行くことにした。
・その途中、大きな人影が見えた。戦友が手榴弾をなげ込もうとしたが、敵か味方かわからないので、離れた所から「山。」と声をかけて反応を待つことにした。すると、「川」と反応があり味方だと分かったので、話を聞いてみると何とか部隊の曹長だということが分かった。
・二等兵だったのでえらいことになったと思ったが、前田の戦闘で負傷して以来、階級章のない満州から来た古参兵の軍服を付けていたので、階級がばれずに済んだ。
・曹長は敵の攻撃に行くというので、よせと言ったが「命令ですから」と言ってきかないので、敵の情報を教えてあげてから別れた。

・ それから真栄里に着いた。ちょとした病院みたいな壕ををみつけたので、入れてもらおうとしたが、「だめだ」と断られた。三名くらい入るだろうと中を見ると、壕の兵隊は三体の死体を重ねた上に毛布を敷いて座っていた。「自分が座っているのは死体だから。」その壕に入るのはあきらめた。

・それから別の壕を探しにいった。結局、国吉の元の中隊に戻るのに二十日くらいかかった。

・落ちぶれてからは、階級でものを言えなくなった。生活力がある、頼れる、度胸のある上等兵が大将になって、一緒に行動していた。
・ある豪に入っていた時、知り合いの軍曹がやって来た。「糸数、お前生きとったのか。戦死したと報告したよ。」と言う。すると大将の上等兵がやって来て、「貴様戦場で逃げ回ったくせに大きな口叩きやがる。承知しないよ。」と言った。軍曹は逃げ出した。階級の力がなくなり、人間のお互いの個人的な繋がりが重要になって、優れた人格を持つ人がリーダーになった。

・食糧はない。自分で探してこないといけない。どうやって食糧を探したか。
・ ある豪から双眼鏡である伍長が外を見ていた。民間の人は早めに米軍の捕虜になっていて(米軍への)軍作業が始まっていた。糸満には学校みたいなところがあって、「あそこに何かあるかもしれない。今晩獲ってこようか。」となった。自分は前の日に食糧探しに行って食べるものがあるので行かなかったが、他の連中は行ってしまった。そして何か担いで帰って来た。
・「おい糸数。」「何だ?」「アメリカの携帯燃料は燃えないなあ」。なぜ携帯燃料が燃えないのかと思って見ると、チーズだった。
・もう一つの缶詰を見てみるが、英語なので分からない。しかしたった一つ「毒」という文字が書いてあることがわかった。
・ごちそうが入っていると思ったのか、一番重い箱を持って来た者がいた。開けてみると、迫撃砲の弾がいっぱい入っていた。大失敗だった。

・ 仲間が「食糧探しに行こう」というので、「どこへ行くのかなあ」と思いながらついていったことがあった。すると土まんじゅうのあるところに着いた。仲間は 「おめえこっちあされ。俺これあさるから」と言う。あさって掘っていると何かドロドロする。「変だなあ何かドロドロするよ」「いいから掘れ」。そのまま掘 ると腕が出て来た。ところが、もう一人の方からは缶詰がでてきた。さらに思いっきり掘るとこっちも缶詰がでてきた。米軍の死体のそばには缶詰が埋めてあっ た。それを食っていた。
・生米と乾燥野菜で十日くらい過ごしたことがあった。補給はないので食糧は探しに行った。
・戦場で衛生についての話をするのはおかしい。前線では死体と一緒に寝ることもあった。

・豪の中には水がないので、命がけで外から汲んでくる。
・ 負傷した人が「水をくれ」と言ってきたので、水を汲んできてあげた。その人は腹いっぱい水を飲んだ。これを見て、そばにいた人が「あまり人を馬鹿にするな。その元気あれば死なないよ。」と笑った。その人は飲み終わると、自分の場所へ戻っていった。それから五分くらいして、その人の場所から「死ぬぞ死ぬぞ!今死んでいくぞ!」と大声が聞こえてきた。「死ぬ人が、今死んでいくぞなんてあるかなあ。」と笑っていたが、実際に行ってみると本当にその人が死んで いたということがあった。

・戦争の話は、経験していない人からみると残虐な話に聞こえると思う。しかし、現代の人間でも裁判所がない、警察がない、行動自由だとやってみたら、動物園になる。極端な状況に置かれると、動物のようになってしまう。
・重い荷物を持って弾の中を歩いて、もうひっくりかえってもいいやというくらい疲れている時、民間のおじさんに会った。「おじさん、水一杯ください。」と頼 んだら、「腐っている」と断られた。「腐っててもいいから水下さい。」とさらに頼むと、「あんたに水上げたら差し支える。」と言われた。すると一緒にいた下士官が、「これから戦場に行って、命がけで戦おうとする兵隊がこれほど苦しんでいるのに、腐った水もやれないのか。」とおじさんに鉄砲を向けた。自分は「我慢する」と言ってそのまま通り過ぎた。
こういう時に誰が悪党なのか。誰も悪くないと言えるのが戦場。自分が水をくださいと言ったのも悪くないし、おじさんが断ったのも悪くない。下士官が部下を思って武器を向けたのも場合によっては悪くない。お互いに極限状態にあるときの行動は誰が悪いのかわからない。
こういう時はある程度寛大でないといけない。あんまり厳しいと人間はやれない。
・あまり民間の人と接触することはなかった。
中隊にも戦闘前には防衛隊の人が十名くらいやって来ていた。

・ ある小さい壕に入っていた時に、壕の上に敵が来たので逃げようとしたら、後ろから兵隊が「一緒に行く」と言ってついてきた。そして壕から出たとたん、うしろが爆発した。ついてきた兵隊はやられたらしい。そのまま五百メートルほど逃げたら戦車に遭遇したので、別の方向に行こうとしたら戦車が二台いた。これはもう逃げられないから、近くの墓場に入って、拳銃で自殺しようと考えた。ちょうど頭を撃とうとする時、夜が明けて外が明るくなってきた。もう一度戦車を見て見ると、各坐した戦車だった。死ぬ覚悟が消えたので、元の壕に戻った。
・ある壕にいた時、「もってろ」と十四年式拳銃を貰った。くれた人はそれからすぐに馬乗り攻撃をしていた米軍の手榴弾でやられて死んだ。
・敵のM4戦車は沢山攻撃に来たが、吸着地雷や爆雷で肉薄攻撃をした兵隊はほとんど死んだ。運が良ければたまに撃破出来た。
・西原では戦車が必ず通る道があり、そこに潜んだ兵隊が攻撃に成功していた。

・米軍の火炎放射戦車の攻撃を受けたことがあった。ちゃんと戦車の後ろに歩兵が五・六名ついていた。
・戦場でこういう攻撃をうけると頭がボケてしまうのか、攻撃から逃げようと壕から出ると、ある戦友が「巻絆を忘れた」と言って壕に戻って行って、焼かれて死んでしまった。

・ ある壕に入って、寝る場所を作ろうと石をどかしていたら手榴弾が一個出てきた。すると、違う場所にいた兵隊がやってきて「それは俺の物だ。よこせ」という「何を言うか。お前はあそこにいて、俺はここを片づけて今拾ったんじゃないか。何でお前のものか」「よこさないとぶち殺すぞ」と言う。
その兵隊をよく見てみると、十七・八歳くらいで若そうだった。「何を言うか馬鹿野郎」と思って、短剣を抜いて刺そうとしたら、「俺は一個もないんだ。頼むから一個くれ。」と言う。「最初からそう言えばいいじゃないか」と投げて渡した。
・それから自分の寝床に戻ろうと五メートルくらい歩いたら、その兵隊が手榴弾を抱いて自殺した。
・そのまわりには防衛隊の隊員らしい人が三名くらいいて、みんな巻き込まれて怪我をした。防衛隊員は怒ってその死体にひどいことをした。

・民間の人は苦労したのはわかるが、本当に最悪なところまではいっていないと思う。

・ある日、壕に日本兵がいないと思ったのか、アメリカ兵が自動拳銃を持って入って来たことがあった。びっくりして持っていた拳銃を撃つと、米兵は自動拳銃を置いて逃げて行った。それ以来、その自動拳銃を持っていた。

○昭和二十年八月

・一緒に寝ていた兵隊が、夜中の十二時頃に突然起きて、「我々は生きて帰れるかもしれないよ。」と言った。
・その兵隊は夢を見て、その中で隊長以下の兵隊が山形の方に整列して歩いていて、そのうち今ここに残っている者は姿形がはっきり見えるけれど、あとは真っ黒くて見えなくて、うつむいていたという。

○昭和二十年八月十五日、終戦

・終戦になった時は、悲しくもなんともなかった。壕に一緒にいた北海道出身の人が「あー、これで父ちゃん母ちゃんに会える。」と言った。

・武装解除の時は、第一大隊長の伊藤大尉のところに石部隊(六十二師団)から中尉がやってきて、それから連隊本部に連絡が行って武装解除に応じることになった。
・武装解除までに二日間の自由時間があって、この間に髪を切ったり洗濯した。

○昭和二十年八月二十八日ごろ、「明日、武装解除をするので鉄砲を持ったまま国吉の台上に集合せよ」との命令がかかった。

・まだ陣地に残っている兵隊を呼びに行ったら、地下足袋を燃やして飯をたいている兵隊を見つけたので声をかけた。振り向いた兵隊の顔を見ると、その兵隊は負傷して右の頬がえぐれていて、度肝を抜かれた。
・その兵隊は、一応集まるには集まったが、その後行方不明になった。
・当時は整形ということを知らなかったので、自殺したのかもしれない。かわいそうなことをした。

・武装解除には生き残りの将兵336人が集まった。
・武器を持ったまま集合してもいいと言うので、アメリカの自動拳銃を持ってったら、アメリカ兵が煙草をくれた。

・その後、トラックで屋嘉(※)の収容所まで連れていかれて、42中隊に配属され、PWと書かれた服を着せられ捕虜になった。
・収容所は民間用、軍隊用に分けられていて女子もいた。
・米兵も案外親切で、いい生活ができた。
・この収容所には一ヶ月くらいいた。

・実家のあった西原方面では、まだ戦闘が続いていて立ち入れなかったので、収容所を出てからは親族のいた百名(※)に行った。
・そこにしばらくいて、平和になってから実家に戻り、復員。

●終戦時、陸軍上等兵。

・国を守るとか何を守るとかは思っていなかった。ただ、敵が来たから戦う訳だ。それだけだ。結果がどうとか考える余裕はなかった。
・命を誰も惜しまないで死んだのかについては疑問を感じる。
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