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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
東海キャラバンが2月14日(月)に伺った証言の概要です。

◎山田治男さん

1918(大正7)年4月16日生まれ

1941(昭和16)年12月 青山学院を3か月早く繰上げ卒業。
 通常の徴兵検査は本籍地で行われるが、大学のあった渋谷区役所で徴兵検査が行われた。
 第1乙種

1942(昭和17)年2月1日 入営(現役)
 工兵第3連隊補充隊
同年4月1日 甲種幹部候補生に合格
同年5月1日 松戸の陸軍工兵学校入学
 この夏は大変な猛暑で、何かの拍子に教官を怒らせた時、完全軍装での厳しい行軍に熱射病でバタバタと倒れることがあった。一人は熱けいれんを起こし4人で水をかけたわしで体をこすって意識を戻らせ病院に送り込んだら1週間ほどでけろっとして出てきた。

同年11月1日 原隊復帰
  11月半ば  工兵第38連隊第2中隊に転属
  12月4日  豊橋出発
  12月5日  4隻で船団を組み宇品出港(けんざん丸)、台湾経由でラバウルへ
  12月20日 ラバウル着

○ガダルカナルへ派遣される予定でのラバウル派遣だったが、ガダルカナルへの輸送船はもう無いと言われそのまま3年余をラバウルで過ごした。
 同じ船団でも歩兵はガダルカナルへ送り込まれた者がいた。
 後にラバウルに戻ってきた兵隊からガ島の様子は聞いたが、ブーゲンビルでかなり恢復してからの合流だったので、骸骨の様な兵隊を見ることは無かった。 

○1943年いっぱいは輸送船は来ていたが当時から現地調達が奨励された。
 農耕班が作られ、主食はサツマイモとタピオカ(団子)、タロイモと米も少し種があり、なすやきゅうり、カブ、大豆、南国なので大きくなった。

1943(昭和18)年10月 200機ほどでの大空襲
 糧抹倉庫が狙われ砂糖、米、酒が燃えた。
 持てるものは持っていって良いとの命令で、ありったけの自動車を出して部隊毎に運び出した。
同年10~12月 軍属、看護婦達が引き揚げ
1944(昭和19)年2月末 ラバウル航空隊がトラック島に撤収

【工兵の仕事】
 ガダルカナル、ブーゲンビルの次はラバウルだと思っていたので、陣地構築、海か来ても山から来ても良いよう大砲を隠すトンネルをたくさん作った。
 トンネル工事で3名が生き埋めになり死亡した。
 陣地構築の指導のため少人数で歩兵など他部隊に行くことも多かった。
 戦車攻撃の訓練も頻繁、戦車連隊があったので借り出す事が出来た。
 昭和19年後半に方面軍内で対戦車攻撃の対抗試合が行われていた。
 
【労務者、現地の人】
 中国人、マレー作戦で捕虜になったインド兵が連れてこられ労務者として使われていた。
 山田さんの中隊でも20~30人がおり、馬小屋みたいなところに宿泊していた。
 賃金は払っていたが戦後捕虜として連れてこられたと問題になっている。
 現地の人は兵舎に自由に入ってくる関係。
 日本兵側で接触を持つのは得意だったり好きな人間がやっていた。
 主計兵は手持ちの布を提供しパパイヤやパイナップル、野菜を手に入れていた。
 一方憲兵はスパイの摘発をやっており戦後戦犯になる事例があった。

【空襲】
 1945年の8月13日まで定期便としてやってきた。
 大空襲を別にすれば10~20機程度、最後には2~3機に。
 工兵隊は横穴を掘ってそこに退避、空襲警報がなり被害は少なかった。
 夜はこの横穴で寝ていた。

【ラバウルで出来ないのは赤ん坊だけと言われた】
 タピオカのでんぷんとヤシ油の天ぷら
 落花生の豆腐(石臼は石屋が作った)
 ヤシ蜜→ヤシ酒→蒸留酒(配給された)
 ヤシ油は燈明になり、皮の裏側の白い部分はすぐに食べるといかさしみたい。
 冷たいヤシの実の汁はサイダーみたいでおいしいが、そればかり飲んでいると体臭がくさくなった。
 塩は第8方面軍が製塩所を営んでいた。
 火山から硫黄を採取→火薬
 壊れた飛行機を幾つか組み合わせて飛ばした。
 複座の零戦とかがあり最後まで4~5機飛んでいた。

○工兵は火薬を使い慣れているのでそれを水に投げ込み魚を獲っていた。
 歩兵部隊の部隊長から羨ましがられ火薬をくれと言われた。
 事故になると責任問題なので断っていたがしきりにせがまれ渡したところ爆発が起こり、兵が死んでしまった。火が付いていないと思い口で吹いたという。
 戦死で処理したと思う。
 初年兵の自決もあったがこれも戦死で処理していた。

1945(昭和20)年 8月16日
 連隊長の訓示で敗戦を知る、「まさか、まだ戦えるのに」と思った。
 若い士官学校出身者達が「山に籠って一戦を交えよう」と主張したがなだめられた。
 片足になった衛生下士官が自決した。
 船がないからラバウルから帰れるのは3年後ぐらいではないかと噂していた。
同年9月10日
 豪州軍が完全武装で上陸、武装解除となる。

【収容所】
 1万人ずつ10か所に分かれ収容、山田さんは南先(みなみさき)集団に入った。
 収容所は自ら家を造り柵も自分で作った。
 豪州軍の監視兵は数人で自律自活管理。
 出入りは自由で先の農園に出かけたり、魚を獲りに行った。
 階級章は浦賀まで付けていた。

1946(昭和21)年3月23or24日 復員

◆◆◆

ついでに、東海キャラバンリーダーのコメントです。

午前に伺った山田治男さん(ラバウル)の証言です。
最後まで方面軍も機能しており、ニューギニアやブーゲンビルと目と鼻の先なのが信じられないほど落ち着いたお話でしたが、兵隊の工夫のたくましさには感心させられました。
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