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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
沖縄キャラバンが2月8日(火)に伺った証言の概要です。
5月ごろにはメーリングリストに流れていたのですが、次々とキャラバン・イベントが重なり、紹介しそびれていました。「百人展」を機に新しくまとまった証言概要もあると思いますので、また随時全国キャラバンの聞き取りの内容を紹介していきます。

◆◆◆

◎久場千恵さん
(82)旧姓:島袋
昭和四年生まれ
所属:石部隊(六十二師団)野戦病院(石5325)
職業:日赤看護婦
戦地:沖縄/首里~米須


○昭和四年三月、大阪府生まれ。

○昭和十年四月、今宮第五小学校入学。

・両親の勤めていた会社が大恐慌の影響で倒産して、故郷の沖縄に帰ることに。

○昭和十一年、今帰仁村立兼次尋常高等小学校に転入。

・当時沖縄は大変貧乏で、非常に貧しい生活をしていた。
・さつまいもが主食で、野菜は畑で作りおかずは海に取りに行く。各家庭で豚を飼っていてお正月になると食べていた。豚は貴重なタンパク源だった。

○昭和十六年十二月八日、大東亜戦争開戦。

○昭和十九年四月、日本赤十字社救護看護婦養成所に入学。

・那覇の県立沖縄病院の付属看護婦養成所で教育を受ける。助産婦なども入れて二百名ほどが教育を受けていた。
・県立病院に入院できるのはだいたい高位高官か金持ちで、昔は県立病院と聞けば驚いた。

・養成所出身の看護婦は戦地に送られる。しかし、野戦病院や陸軍病院に配属されるということがどういうことなのかピンとこなかった。どんな目に会うのか想像もしなかった。
・生まれたばかりの赤子を置いて戦場に行く看護婦の話に感動したり、従軍看護婦が戦地で恋人と出会ったという美談もあって、当時は従軍看護婦は素晴らしいという感覚しかなかった。
・当時は看護婦として名誉ある任務を背負っているというくらいに思っていて、家に帰ろうなどとは思いもしなかった。

○昭和十九年十月十日、十・十空襲。

・県立病院が焼けた。

○昭和十九年十二月ごろ、石部隊野戦病院に配属という通知が届く。

・軍から爪と毛髪を切ってくるように言われていた。それを知った親に「行かないでほしい」と言われた。

○昭和二十年二月、第六十二師団野戦病院配属。

・石部隊の野戦病院は首里のナゲーラ壕におかれていた。【※現在の南風原町新川付近】
・養成所から石部隊の野戦病院に配属されたのは五名。
・沖縄の二月は寒かったが、毛布も何もなかったのでみんなでくっついて寝ていた。
・野戦病院に入ってから従軍看護婦とはどういうものなのかを知った。
・米軍が上陸して戦闘が始まると、嘉数高地やシュガーローフ(安里52高地)から負傷兵がたくさん送られてきた。
・最初は野戦病院にあった二段ベッドを看護婦が使っていたが、そこも負傷兵が使うことになり、くぼんだ地面に寝て生活していた。
・あまりに人が来きて野戦病院にも防空壕にもはいらなくなったので、次第に川のそばに置かれているだけという事態に。
・野戦病院で処置された兵隊は陸軍病院に送られる。しかし陸軍病院もいっぱいになっていた。

・重傷患者は助からないとみて軽症患者だけを処置していた。
・麻酔がなくなったので麻酔なしで腕や手足を切断していた。手足を切る時は皆で負傷兵を抑え込む。負傷兵は断末魔のような悲鳴を上げる。
・骨を切るときにはのこぎりをつかう。
・切断された手足は防空壕の中にはおいておけないのでチリ箱の中に入れて外に置いておく。翌日になるとそのチリ箱は米軍の爆撃で吹き飛ばされてなくなってしまう。
・死者は爆撃の後にあいた大穴にいれていた。戦後高速道路を作る際にそこが発掘されて慰霊祭を行った。
・夜は蝋燭を使うか豚の脂に芯を立てて灯りを付けて手術をしていた。
・顔面の皮膚が剥がれた負傷兵がいて「水をくれ、水をくれ」と言う。軍医は「今水を飲ますと死ぬぞ」と言い、剥がれた皮膚を丁寧に縫い合わせていった。縫い合わせ終わって「ああよかった」と思っていたら、その負傷兵は頭がおかしくなっていたのか、縫い合わせた皮膚を全部剥がしてしまった。「水をくれ水をくれ」と騒ぐしどうしようもなかったが、結局亡くなってしまった。どうせ亡くなるなら水ぐらい一杯飲ましてあげればよかったのにと思った。
・「天皇万歳」と言って死ぬ人はいなかった。みんな「お母さん」か「水をください」と言って死んでいく。
・苦しくなると「脳症状」といって頭が変になり、自分がどこを歩いているかもわからなくなる。二段ベッドの上から落ちる人もいた。
・赤ちゃんを背負った女性がいた。その女性は砲撃の中を逃げてきて、それから赤ちゃんにおっぱいを飲ませるときに赤ちゃんが死んでいるのに気づいて大騒ぎした。
・県立一中の教官の奥さんが臨月を迎えて、「誰か医者を紹介してください」といってやってきた。しかし、壕の中はいっぱいでお産できるような場所はなかった。それから砲撃がはじまって、どうなったか分からなくなってしまった。
・ナゲーラの壕で腸チフスだった衛生兵の八木上等兵が、もう動けないからといって拳銃で自殺した。
・防空壕の中でハブに噛まれる人もいた。野戦病院での豪ではなぜかハブは出なかった。
・自決用の手榴弾を貰ったこともあった。しかし二、三時間後に兵器が不足しているからということで返すことになった。

・やがて首里の攻防戦がはじまる。
・四月二十九日の天長節に、南部に移動するからということで恩賜の煙草が兵士に配られた。

〇昭和二十年五月、南部の米須の壕に移動命令が出される。
【※五月二十日から二十二日ごろか】

・午前二時ごろ、南部への移動の第一班として、衛生兵と同僚数名で壕を出て向かおうとしたところへ米軍が攻撃してきた。同僚の喉に砲弾の破片が命中し、一言も言わずに倒れた。「起きて!」と言っても起きず、即死だった。喉を見てみると破片が入った穴は小さかったが、出て行った後頭部にはものすごい大きな穴が開いていた。
・その同僚の遺体はおそらく第二班が片付けたと思う。
・その後、もう一人の同僚の腸チフスが悪化して動くことが出来なくなってしまった。同僚は「いいから私を置いていって」と言うが、「それではいけない」とみんなで説得して、結局看護婦長が抱いて南部まで連れて行った。
・この同僚は戦争を生きのび現在も健在。しかし、同僚を助けた看護婦長が戦死してしまった。

・小銃の音が怖い。その次に迫撃砲。迫撃砲に攻撃される時は飛行機が飛んでいる。米軍の飛行機が翼を振るとすぐに攻撃が始まる。
・後ろからは迫撃砲、海からは艦砲、空からは機銃掃射で身動きできなかった。
・自殺のための薬を各自が持っていた。

・大体夜に行動していた。
・夜に米軍が照明弾をあげると普通は動けないが、田舎の方ではハブがいるかいないかが分かるので、逆に照明弾があがってから動いていた。
・モンペに防空頭巾をかぶって携帯用の救急袋二個か三個かけて歩いていた。途中で重くて走れないのでいくつか捨てて歩いた。
・靴は地下足袋。革靴を履いていると足の皮がずるむけになってしまう。皮靴は首にかけて歩いていた。

・首里(ナゲーラ壕)→武富→保栄茂(びん)→伊原→米須と移動。

・移動の途中、ひめゆりの壕の反対側にあった壕に避難して入った時に、同僚で右手をやられた人が先に 入っていた。壕にたどりついてやっとほっとしたと思っているときに、衛生兵が注射器を持ってきて同僚に注射するように頼んだ。すると知り合いの看護婦さん が「やっちゃだめ」と言ってきた。なんでやっちゃだめなのか聞くと「あれはモルヒネで毒殺するつもりだからやらないほうがいい」と言って止めてくれた。
・南部に着いてみると、壕はすでにどこの部隊が使うのか決められていた。
・野戦病院は米須の壕を使うことになっていた。しかし、指定された行ってみると壕には山部隊(24師団)の兵隊が先に入っていた。それから同じ軍人同士で口論が始まり、とうとう拳銃を抜き始めた。すると、それを遠くから見ていた軍医が「お互い日本人じゃないか。もう少し紳士らしくやろうじゃないか」と大声で叫んだ。それで口論が収まった。
・壕の入り口には住民が避難してきていたが、出て行ってくれという感じだった。
・米須の壕に約一カ月いた。

〇昭和二十年六月十九日、石部隊野戦病院、解散。

・野戦病院の解散を他の壕に入っていた同僚達に伝えに行く途中で、前線に向かう父親に会った。
・父親は今帰仁から防衛隊として南部にやってきていが、そのことは知らなかった。
・葉っぱで偽装して軍服を着た父親は自分を見て呆然と立ち尽くし涙を流した。それから「この時局だからもうしかたがない。体に気を付けて行けよ。」といって前線へ行った。
・それまでは家族に会いたいとか家族の事を考える余裕はなかったが、父親に会ってから家族のことが心配になった。父親の涙は初めて見た。
・父親と別れてから壕の隅で一日中一人でしくしく泣いていた。すると軍人に「あなたはお父さんに会ったんでしょう。そんなに泣くと縁起が悪いから泣くな」と言われた。それでも涙が止まらなかった。本当にみじめだった。

・野戦病院が解散してからは山城の壕に行けということだったが、父親を探して回っていた。少しでも声が聞こえると「今帰仁の方ではないですか」と訪ねて歩いた。
・探している途中ある場所に行ったら、たくさん人がいるのにしーんと静まりかえっていた。よく見ると真ん中を爆撃されたのか、自爆をしたのか、死んだ人がいっぱいいた。「大変な所に来た」と思って引き返した。
・同僚とも離れ離れになって一人になっていた。
・防空壕もないので、あぜ道の下の方に穴を掘って隠れていた。
・可哀そうなのは住民。壕を追われてどうすることもできなかった。

・ソテツから団子をつくって食べていた。嫌いだったけれど、これで多くの人が助かった。
・米軍のKレーションの食べ残した跡があると近くに敵がいることがわかる。恐怖があった。
・ある時、アダンの木の根っこの中に入ってかくれていると、海のほうから水陸両用戦車が轟音を立ててやってきた。引き殺されそうになったがなんとか見つからなかった。
・ほとんど食事もしなかった。乾麺麭を舐めて生き延びて居たようなものだった。
・六月は雨季でびしょびしょになった。
・着替えも水もない。水は鍾乳洞の中に行って、ポツポツ垂れてくる水を集めて飲んだ。しかし臭くてとても飲めなかった。
・結局アダンの葉っぱにたまった水を飲んでいた。
・飲まず食わずが何日続いたのかはわからない。フラフラだったが気はしっかりしていた。

・米軍機がカレーなどのおいしそうな食べ物の絵をカラー刷りで印刷したビラを撒いていた。これはおなかの空いた者にとってはものすごい戦力だった。
・戦前に映画で見たシャーリーテンプル【※アメリカの子役女優】が結婚したなどのニュースのビラも撒かれていてびっくりした。

○昭和二十年六月

・行く場所がないので、米須海岸近くの畑の中に寝転がっていたところに、米兵がやってきた。米兵は死んでいると思ったのか誰も見向きもしない。そうこうしているうちに風が吹き持っていた救急袋の中身がこぼれたので、それを拾おうとちょっと動いたのが見つかり捕虜に。

・はじめて米兵の青い目を見て、恐いと思った。
・それから、おそらく現在の平和祈念堂のあたりにあった収容所に連れて行かれる。そこには住民も軍人もいっぱいだった。
・そこで軍人と民間で分けられ、トラックに乗せられる。民間のトラックに乗せられたら殺されるかもしれないと思ったので、軍人と同じトラックに無理やり乗った。
・そして連れて行かれたのが豊見城の軍人収容所。軍人の捕虜がいっぱいいた。
・米兵は一人やってきた自分を見てびっくりしたのか、すぐ取り調べをうけた。
・二世の兵士から取り調べをうけたが、その時に緊張の糸が切れたのか倒れてしまった。翌朝起きたら笑われた。

・その後、住民収容所に移る。
・食事を炊くにおいがして、すごい良いにおいだった。少しもらって食べて、初めて食事をした気になった。
・国場・石川・大浦崎などの収容所を転々とした。
・大浦崎の収容所で母親と会う。。
・収容所でも毎日大勢の人が亡くなっていた。
・収容所はアンビュランスで回れた。

・一日におにぎりが一個ずつくらい配給。
・母親に髪の毛を力いっぱい櫛ですいてもらった。シラミがとれなくて大変だった。
・あれは人間の生活ではなかった。
・収容所で米兵に暴行されるという話は聞いたことはあったが、実際に見たことはなかった。
・日本の軍人よりアメリカの軍人の方が人道的な印象。
・米兵からもらったチューインガムの食べ方がよくわからなかった。味がなくなったので飲みこんだら米兵に怒られた。

・終戦を知った時、不安と悔しさはあったが、これで人間の腐った臭いをかがなくていいんだと思った。
・終戦から一カ月ぐらいたつと、これでもう苦しい思いはしなくていいと湧きでるように嬉しくなった。
・戦後三十年くらいの生活は苦しく大変だった。


□参考文献ほか
・久場千恵(2004)『悲しい記憶』なんよう文庫
・『第62師団史実資料(3)』防衛研究所蔵
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