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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
四国チーム2班が、5月4日(水・祝)に伺った証言の概要です。
実際の聞き取りの中では、それぞれの年月日はほとんど話されていなかったため、手記を元に補足しました。

◆◆◆

◎後藤田茂明さん

1943(昭和18)年1月10日現役第1海兵団入団。
1943(昭和18)年6月16日佐世保入港。整備作業。
重巡洋艦「妙高」乗員。

○1943(昭和18)年11月2日 ブーゲンビル島作戦参加。
妙高と羽黒は飛行機を2機ずつ積んでおり、偵察に飛んでいた。これらの飛行機が長光弾を落とすと、砲撃開始。
敵はレーダーを装備していたため砲撃は正確で、妙高も1発被弾。被害は軽微だったので体勢を立て直そうとしたところ、妙高の船体に左側から初風が乗り上げ、左舷が大きく傾いた。初風から振り落とされた兵が一人、「助けてくれー」と叫び続けていたが、暗闇のためどうすることもできず。この兵は水中に沈んでしまった。助けを呼ぶ声を忘れることができない。
その後も魚雷の「ピシューン」という音を聞きながら戦闘を続けた。
ラバウル入港。

○1943(昭和18)年11月3日 ラバウルに敵機200機が襲来。
一定方向に進んでいると狙われるので、よけながら機関銃で砲撃。妙高の主砲は10m。(大和・武蔵は20.7m。)大砲の弾は25キロほどある。それを3秒ぐらいで次々に砲台に乗せる任務。
船体のへりに近いところに爆弾が落ちた。バルジーに水が入る大被害を受けたため、内地で修理することになる。

○1943(昭和18)年11月12日 トラック島出港。17日、佐世保入港。

○1944(昭和19)年6月13日、バチアンを出発。
マリアナ沖海戦。
妙高と羽黒は第5戦隊。
旗艦の大鵬が前面から大砲を一発食らった。
大鵬から出撃した飛行機が前方の潜水艦をめがけて体当たりするのを見る。この捨て身の攻撃に、「そこまでしないといけないのか、厳しくなっているのだな」と戦況が急迫しているのを感じた。
大鵬はしばらく持ちこたえていたが、最後には爆発。2000人の兵が乗っていたが、一度も母港舞鶴に戻ることなく海の藻屑となってしまった。

○1944(昭和19)年10月22日 比島沖海戦参加。(※比島沖海戦=レイテ沖海戦)
10月23日麻耶沈没を見る。
10月24日シブヤン沖にて米潜水艦の雷撃を受ける。
ブルネイから、西村、小沢、志摩、栗田と軍艦が4つにわかれてなぐりこみをかけていた。
妙高がいたのは一番大きな栗田部隊。32杯の船が、大和を守って前進していた。
大和の右前方に妙高、大和の右後方に武蔵。武蔵が大型爆弾17発、飛行機からの魚雷19発を受ける。7000mぐらいの水柱が噴き上げた。そのまま9時間航行した後沈没。
(米軍はそれを見て後の大和のときには片側だけを爆撃する作戦に変えた。そのため乗員は200人ぐらいしか生き延びられなかった。武蔵は生き延びた半分はマニラに送られて大部分死んでしまった。)
武蔵がやられると今度は妙高が標的に。
「ヒューン」と飛行機が唸る音が聞こえた。このとき自身は船の左側におり、飛行機が右側から来ていたので音だけが聞こえていた。
右側が被弾。赤褌をしていたので、いつでも海に飛び込む体勢をとった。なんとか沈まずにすんだ。
右側のスクリューがやられていて、他の船に置いていかれた。
大麻山の島影で救援を待つ。
駆逐艦が戦死者やけが人を運んできたので、その処置にあたる。戦死者は埋めた。負傷者は「痛い痛い」とうめいていた。
シンガポールに向かった。途中敵の攻撃を受けないかハラハラしていたが、このときは何事もなかった。

○1944(昭和19)年11月3日
シンガポールに入港し、応急処置。右の2弦のスクリューは直らなかった。左のスクリューだけでなんとか動けるようにした。

○1944(昭和19)年12月12日
内地で修理を受けるために、シンガポールを出港。

○1944(昭和19)年12月13日
サンジャック沖にて、米軍の雷撃を受け大破。
「左舷に潜水艦」という見張りの報告が入ると、「まずドイツの潜水艦でないか確認せよ」と言われた。このころはまだ同盟国ドイツの潜水艦も近海によくいたため。
ドイツではなく米軍の潜水艦であり、魚雷攻撃を受ける。4本の魚雷のうち3本までは回避したが、1本が204mの船体の後ろ50mぐらいのところに当たった。
高射機で反撃した。当たったかどうかはわからないが、その後敵もあまり撃ってこなくなった。
重油に火がついて30mほどの火柱が上がる。なかなか消えない。めいいっぱい積んでいた燃料のドラム缶を、蹴って海に落とした。
そのうち海がしけてきて、大きな波に揺られるうちに、魚雷を受けたところから船体が折れた。後ろの兵隊が落ちて浮いているのを、ボートで拾いにいく。
羽黒に応援を頼んだが、作戦中ですぐには来られないという。夜が明けると、遠くに羽黒の姿が見えた。このときは、親が迎えに来てくれたように嬉しかった。
羽黒に曳航されてシンガポールに引き返す。
そのまま現地で防空砲台に付く。

もし、妙高の右舷の修理ができていたら、そのまま大和と一緒に沖縄戦に行けと言われていて、今の自分はなかっただろう。

○1945(昭和20)年8月15日
陣地構築作業中に集められ、玉音放送を聴く。
終戦を知ったときは、ほっとした。

○10日後、海軍先発隊としてレンパン島へ上陸。
食糧確保のため野菜作り等に従事。
1週間小便もしなかった。病気でもないのに小便が出ないというのは、どうしたことかと思ったが、それだけ何も食べていないということだった。
その後現地で米軍捕虜に。6ヶ月の捕虜生活。

○1946(昭和21)年5月4日復員命令。
10日の航海を経て、5月14日、和歌山県田辺港に上陸。復員。

留守中に実家が接収され、飛行場になっていた。
インフレのため、もらったお金の価値はほとんどなくなった。
大きな石がごろごろある砂地に売家があったため、そこに住んだ。よくこんなところに住むものだと思った。
農地にするのは大変だったが、今は米や大きなすいかがとれ、固定客もつくほどになった。

内地に戻るのは船の修理が必要になったときぐらい。1回佐世保に戻っただけだった。手紙などは好きではなく、書くことはなかった。
戦争中から信心していて、親に「心配ないからな」と念じていたら、夢つげがあり、母がそのことを知っていた。

多くの兵隊を死なせた軍の指揮官は、責任を取って死ねばいいというものではない。
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