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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
沖縄キャラバンが2月7日(月)に伺った証言の概要です。

◎堀川 澄子さん
所属:那覇市泊国民学校
戦地:対馬丸
当時:初等科六年


・疎開には友達も行くので喜んでいった。
・那覇港に集まって、大発(?)に乗って対馬丸まで行き、板はしごを使って乗船。
・船倉の中は大変暑い。蚕棚のように二段ベッドがついていて、上は男の子、下は女の子と分かれていた。
・24時間浮くと言われた、ススキの穂が入った救命胴衣をつけていた。このおかげで助かった。
・避難訓練も行われていた。

○昭和十九年八月二十二日

・よく眠っていて魚雷が命中したことには気づかず、気づいたら周りが大変なことになっていた。
・周りは真っ暗で無我夢中。どうにかはしごを登って甲板にでることができた。
・浮いていたボートにしがみついて漂流。
・ボートには最初は多くの人がいたが、翌朝には減っていた。
・夜光虫がたくさんいた。払いのけると余計に集まって来た。
・同級生が力尽きて流されたことが今でも忘れられない。

○昭和十九年八月二十三日

・漁船に救助され、鹿児島県山川港に向かう。
・婦人会の人に手当てしてもらう。
・翌日鹿児島市へ。
・生存者はここで一般疎開と学童疎開に分けられる。そして泊国民学校の先発隊と合流。
・対馬丸撃沈については緘口令が敷かれていた。
・疎開先の宮崎県へ。
・宮崎第三国民学校に編入。初等科を卒業し高等科へ進学。
・冬に着る服を持っていなかったが、周りの人や先生がとても親切で冬服をくれた。
・その後さらに熊本に疎開。同地で終戦を迎える。

○昭和二十一年十月ごろ。

・親戚の家族と共に、佐世保より大きな漁船に乗って沖縄・那覇へ。
・すごい船酔いした。食事には乾パンが出た。
・那覇は焼け野原になって何もなかった。
・初めて黒人を見た。
・DDTを振りかけられ、人間扱いされなかった。
・その後収容所に入る。
・今ニュースで世界各地の難民キャンプのことを放送しているが、沖縄はもっとひどかった。
・収容所に三週間くらいいて、それから家族のところに戻る。
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