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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
2月の沖縄キャラバンについては、少しずつメーリングリストに上がってきていましたが、ブログでの紹介を保留にしていました。『戦場体験史料館つうしん』8号に簡単な紹介が載りましたので、そろそろ掲載したいと思います。
これは、2月6日その2で上がっていたお2人目の方の報告の詳細版です。

◆◆◆

◎与那城 彦興さん(80歳)

昭和五年生まれ
所属:伊江国民学校
戦地:沖縄/伊江島
当時:高等科二年

○昭和五年生まれ

・六年生のころから馬車(伊江島の人は当時みんな持っていたそうです。)を使って日本軍の飛行場づくりに出る。馬車で土を運搬。
・軍作業に行くと一般人夫は八十銭、馬車を持っていくと五円の日当をもらえた。
・友達も一緒に軍作業をしていた。空襲があった時は、鞍を外して裸馬にして乗って、日本軍の交通壕を飛び越えて家まで走って逃げた。楽しかった。
・学校での授業がほとんど無くなった。
・高等科を卒業した同級生は義勇隊として兵隊と一緒になって行動していたが、軍作業に行っていたためか自分は高等科を卒業していないことになってしまっていて義勇隊にはいかなかった。今でも籍だけは学校に残っているらしい。
・野砲陣地や、速射砲陣地、機関銃陣地を作り、兵隊と一緒に弾の掃除もした。

○昭和二十年一月二十六日ごろ、大きな空襲があった。

・その時に米軍機が学校のそばに一トン爆弾を落とし、大きな穴ができた。
・その穴を見ている時に米軍機がやって来たので、城山のそばの野砲陣地に逃げ込んだ。米軍機は逃げて行くのを見たのかわからないが、逃こんだ野砲陣地に爆弾を落とした。
・爆弾は野砲陣地に直撃し八名が亡くなった。しかし自分は助かった。
・十五・六歳でわんぱくで空襲は怖くなかった。遊びと同じ。


○昭和二十年三月十五日ごろ、また空襲があった。それからは毎日空襲。

・夜は艦砲、昼は空襲。
・空襲は爆弾を落とすので怖いことは怖いが、飛行機が見えるのであんまり怖くなかった。しかし艦砲は夜に島のまわりのどこから来るかわからないから怖かった。


○昭和二十年四月十六日、この日は空襲がなく静かだった。「めずらしいもんだなあ。こんな日もあるんだなあ。」と思っていたら、米軍が上陸してきた。

・家の近所にあった機関銃陣地はすぐにやられてしまった。
・米軍が上陸してからは、城山の近くにあった豪の中に潜んでいた。
・民間の壕より安全だと、兵隊と一緒に壕や陣地に入っていく人もいたが、みんな死んでしまった。
・何日目か米軍の総攻撃があり、日本軍が全滅。この時、壕の中で外の音が聞こえたがすごかった。あちこちから弾がビュンビュン飛んでいく。
・壕には一週間くらい家族と近所の人と一緒にいて、その後、城山の近くにある壕から湧出(ワジー:水源地)に逃げて、北部海岸沿いにあるイッテヤーヤガマに入る。
・このガマに一ヶ月くらいいた。
・壕(イッテヤーヤガマ?)に入っていた時に、艦砲でやられた人がいた。「水がほしい」と言っていたが、飲ませたら死ぬので飲まさなかった。しかし、かわいそうだったので父が水をあげると、すぐその場で息を引き取った。
・保管米といって緊急時用に保存して来た米があり、それをいくらでもとってこれたが、火をたくと敵に見つかるので炊くことができず生米を食べていた。子供だったので生米では食べたうちに入らなかった。
・日本兵が馬を射殺してその肉をくれた。
・当時は帽子もなく、半ズボンに学生服。さらに裸足。
・ガマは地面が固くて寝ると痛い。
・そのうちイッテヤーヤガマにも日本兵が入ってきて、とうとう米軍も入ってきた。
・朝八時か九時ごろ、米軍は壕にやってきて手榴弾や催涙弾をなげ込む。壕は大きいので奥の方に隠れていたが、催涙弾をなげ込まれると息ができない。ボロきれに小便をして、ガスが鼻に入らないように顔を隠した。手榴弾は頭のあたりで破裂した。
・午後三・四時ごろになっても米軍はずっと壕を攻撃していた。
・壕には穴が三つか四つあいていて、父と兄ともう一人がそのうちの一つから逃げて米軍に捕まった。
・捕虜は米軍に集めらて住民に投降を呼びかけて回っていた。


○昭和二十年五月ごろ

・昼は壕に隠れて、夜は食糧・水探し。
・水がなかった。海岸沿いに出て水のたまった所を探し、塩が混じりボウフラの湧いた水を飲んでいた。
・おいしい水が飲めたら死んでもいいという感じ。

・ある時、壕の外から「出てこい出てこい」と呼ぶので、「米軍ではないかなあ」と思いながらビクビクて壕から出て、捕虜になる。
・一カ月以上飲まず食わずで、投降する時はフラフラだった。


○昭和二十年五月末ごろ?

・伊江島の住人は伊江島から慶良間列島の渡嘉敷島に連れて行かれる。
・渡嘉敷ではまだ日米の戦闘が続いていた。
・なぜ米軍が伊江島の人をそんな所につれていったのかわからない。今考えると餌食にでもされたのかと思う。
・食糧もなかった。
・アメリカ兵の手伝いをしていた。

・終戦の時は、米軍の陣地で黒人の兵隊と一緒に隊長の当番をしていた。
・黒人兵が呼ぶので行ってみると、「日本とアメリカが仲直りした」と言う。これはいいなあと思っていた。そして玉音放送を聞いた。なにを言っているのかわからなかったが、これで戦闘が終わったのかなあと思った。
・翌日、日本側から三名、アメリカ側から何名かきて、停戦の交渉を行った。
・さらにその翌日、白旗を持った日本兵が山からゾロゾロ降りてきた。そして米軍に武装解除された。この時に「負けたんだ」と思った。
・その後は山とあった弾薬を、海上トラックを使って海中投棄した。
・戦争が終わると渡嘉敷から米軍が引き揚げ、投降して来た渡嘉敷の人も加わったので食べ物にさらに困った。


○その後、渡嘉敷島から本島の収容所に行き、昭和22年ごろ伊江島に戻る。


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