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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
四国チーム1班が、5月4日(水・祝)に伺った体験の概要です。
キャラバンから帰って間もないころに四国チームのリーダーによって書かれたレポートですので、そのときの状況レポートもついています。メーリングリストに流れたものに、一部手を加えています。

◆◆◆

昨晩(※5月5日)、高松空港から東京に戻りました。

4日と5日の午前中は徳島市から鈍行で1時間の阿波市で聞き取り。2人で手分けをして1日半で一挙10名の聞き取りを行いました。
全体のアレンジをして下さったのは、「市場飛行場を語り継ぐ会」事務局長の二條和明さん。

敗戦近い昭和20年4~5月、突然市場地区の民間の土地が海軍により接収され、市場飛行場が建設されました。
その地域にあった家や田畑は、滑走路に埋め立てられたり各種軍施設になりました。

今回お話しを伺った10名は、通常の元兵士の方4名の他にこの市場飛行場関係のお話しをしてくださった5名、そして銃後の体験(戦中の小学校の先生)1名となります。

◆◆◆

4日にお話し頂いた大塚唯士さん(「市場飛行場を語り継ぐ会」会長)は青年学校の2年生の時、この飛行場の建設に動員されました。
旧市場町の町史編纂室に勤務していた1994年、町史の中でこの出来事にどれだけ重きを置くかを巡って意見が対立し辞職して独自で調査、聞き取り、アンケートを行い一冊の本にまとめました。
これが、現在この出来事の全容を知る礎となっています。

丁度10日前に肺炎を罹患されたばかりで、話しは伝えたいので15分だけ話しますから病院に来て下さいと言われお邪魔したのですが、結局点滴が来るまで1時間一気にお話しをしてくださいました。

以下がお話しいただいた、大塚さんが調べた市場飛行場を巡る概要です。
後で報告する個々の体験と組み合わせて見て頂ければと思います。

***

◎大塚唯士さん
1929(昭和4)年3月12日生まれ

松茂町にあった徳島海軍航空隊の第2基地としてより内陸で山中にあり見つかりにくい飛行場の建設が決定された。

1944(昭和19)年11月or12月
 測量技師が農民に化けてテープをひかずに目測と歩数で測量。
 買収用地が決まった。

1945(昭和20)年4月~
【通告】
○役場などに関係者が集められ憲兵と警察官が立ち会って用地接収を伝え、印か母音を今日押して帰れ、従わない者は非国民だ、投獄されるぞと判を押させた。
○夫も息子も兵隊に行っており私独りの一存では押せないという女性もいたが、投獄するぞと言われ泣く泣く押さされた。
○家や田畑が対象になったのは127世帯、約500名。
 
【接収】
○立ち退きまでに許された期間は1週間。
○滑走路予定地は家の取り壊し、新築5年目の家も“ひっくりこかされた”。
23軒が引き倒された。
○滑走路になるところは、1週間以内に立ち退かなかったら火を付けて焼くぞと言われ、嘘かと思っていたら10件ほど焼かれた。
○周囲の家も27軒が軍事施設や兵の宿舎として接収された。
○立ち退きをした人は親戚の家に行く者が多かった。
 納屋で4畳に6名が住むといった具合、母乳がでなくなる母親もいた。
 
【建設】
○東西1300m×南北100mの滑走路が造られた。
○建設は主に勤労報国隊により進められた。
 ブルトーザーは2台のみ(1台は故障ばかり)、大部分は千人ほどがつるはしで手掘りし、西高東低の土地を平らにならした。
○朝鮮人軍属も80名働いていた。
○大塚さんはトロッコに乗るのが面白くて働いていた。
○敗戦まで滑走路を延長するため東の端にあった溜池の埋め立てが続いた。
 これは戦後この地域の灌漑用水の不足を招いた。

【利用】
○同年5月27日 一番機が来る。
○白菊(機上作業練習機)による第1~6次の特攻隊がここから編成された。
 白菊は市場飛行場を飛び立ち串良(くしら)を経て特攻に出た。
 47名が戦死した。
○東西南北に検問所がおかれ区域に田畑があるものは通行証を持って耕作に出入りした。

【補償】
○家や田畑の広さに応じて補償は行われたが、戦後1万円以上を貰っていた者は戦争協力者とされ、1万円を越えた金額を返金させられた。
○1万円を超えない家も戦後元の土地に戻るときに9割を返金した。
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