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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
南九州チームが、5月6日(金)に宮崎で伺った証言の概要です。
この日のお2人目のこの方は、兵隊ではなく、満鉄職員です。

◎金丸幸輔さん
昭和5年1月17日生

昭和19年4月
満鉄職員に就職。
11ヶ月の訓練。

昭和20年3月
チチハル鉄道局へ。
3ヶ月駅関係の訓練。
5月 現地で旅客案内係りに従事。

昭和20年8月終戦
昭和21年9月18日チチハル最後の引き上げ開始。
昭和21年10月帰国。

【概要】
戦争後期に満鉄職員に。昭和20年の8月18日からの内地に帰るための奮闘が始まります。
8月18日、終戦で列車は動かないが、職員は駅で出勤をしていた。朝の8時に日本人の使用人として働いていた中国人が郷里に帰るために列車がきていた。ホームに中国人が溢れ、「荷物を捨てて乗りなさい」と言っても聞かずに殺気だってきた。
次に、日本人を乗せた列車がきて、負傷者、女性、子供が乗っていた。ハイラル方面からの避難者だった。
その日の終わりに、列車がまた来た。ロシアの武装兵が次々と降りてきた。ニコニコしながら近づいてくるが、言葉が分からない。内モンゴルの部隊らしい。服は汚らしく、正規の兵士という雰囲気ではなかった。手に刺青をしていた。
その列車に続いて、日本の武装兵が降りてきた。駅に降りるなり、先ほどのロシア兵に見守られながら、武器を並べている。
武装解除だった。このとき、「日本は戦争に負けたんだ。」と実感した。
8月19日、満鉄職員は追放。1000円の退職金をもらう(当時月給30円もらっていた)。
中国人の家に住み込みで帰国を待つ。
昭和21年9月18日引き上げ出発の報。残留の邦人は歓喜したが、高齢者、回復の見込みのない重傷者をどうするかで、邦人の代表で検討がされた。結局、長い帰国の道中は無理との判断で、安楽死の決断がされた。
老母と重症の夫人を伴った夫と幼子4人の家族の助っ人役として配属されたが、夫人が「帰る道で子供をお願いしますね」と言われた。本人も予感があったのだろうか。主人が「しばらく休みなさい、疲れも取れるよ」と優しい言葉をかけ、医者が安楽処置を施して、眠るように亡くなった。
共産軍に見送られ、垂れ幕に「長い間ご苦労様、無事に日本にお帰りください」と垂れ幕がかかり、バックでは蛍の光が流れていた。2,000名の帰国の始まりだった。
数日列車で移動、途中で電車が止まる。線路が壊されており、ここから歩くことに。20キロ近く歩くことになるのだが、途中で邦人が体力がなく、荷物を捨てていく。それを周囲の中国人が拾っていく光景が見られた。
線路のあるところまでいくと、今度は国民党軍の管轄地区だった。
そこで「18歳から20歳の女性は、兵士の慰安婦として残って欲しい」との依頼というより命令がくる。また、ここで立ち往生。どうしようかと思案していると、10数名の女性が「私たちは中国でも慰安婦で生活をしていたので、国内に戻っても周囲からいい顔されない。ここに残る」と志願され、国民党軍も納得して、列車が動き出した。
21日間かけて新京到着。港で船を待つあいだに、国民党軍の慰安婦に志願した女性達も解放されたとの連絡があり、喜ぶ。
21年10月帰国。
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