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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
南九州チームが、5月6日(金)に宮崎で伺った証言の概要です。

◎井ノ久保武義さん
大正10年10月18日生

昭和15年6月1日 志願。
横須賀海兵団入団。 
軽巡洋艦「阿武隈」主計に配属。

昭和16年
真珠湾攻撃に参加。 

昭和17年半ば
阿武隈を退艦。土浦航空隊で訓練。
佐世保航空隊へ(操縦)。

昭和19年3月下旬
フィリピンレイテ島の水上機基地配属。
零式水上偵察機を愛機に偵察活動に従事。
634航空隊配備。

6月
マリアナ沖海戦の偵察従事。

8月
偵301飛行隊配属。
内地へ向かう途中九州で台風に遭遇。

10月18日
部隊ごとフィリピンへ偵察活動に従事される予定だったが、即日762空偵飛行隊へ転属。最新の偵察機「彩雲」
の搭乗員へ

昭和20年3月15日
岩国航空隊教官に(特攻要員養成)。
艦載機の空襲から霞ヶ浦航空隊へ生徒とともに移動。

8月15日終戦
8月16日 特攻命令をやり遂げたい生徒に押され北海道に移動。

【概要】
少年航空兵にあこがれて願書を出すが、父親の知り合いが役所におり、そこから話が父親に漏れて却下される。
父親から「主計ならゆるしてやる」とのことで試験、合格。
軽巡洋艦「阿武隈」の主計に。昭和16年の真珠湾攻撃には「阿武隈」も機動部隊と行動をともにする。ただし、はるか前方に配置され、「機動部隊を守る囮艦隊だな」と仲間内で話していた。
「阿武隈」に乗船しても飛行機への夢は捨てられず、かつ九四式水上偵察機の航空兵(当時の呼び方)にやたら進められて、船を下りて再び試験を受ける。操縦をしたかったので、数学の試験はわざと1問間違えた。(数学を全問正解すると偵察にまわされるといううわさが当時あった)無事合格。基礎訓練後、実戦配備。
パラオ上空で、前方に機影を発見。機影から日本軍機と判断して、近づいたら米軍機で、急降下で回避、「あたらんでもいいから機銃をぶっ放せ」と回避行動をとりながら、逃げる。横滑りのテクニックを使って敵機の機銃を回避し、なんとか逃げることができた。
マリアナ沖海戦では、敵機動部隊の補足のために担当区域を偵察。
井ノ久保さんの担当地域で敵機動部隊を発見することできず、かつ敵の艦載機に遭遇することもなく無事帰還。
伝え聞いた話では、ミンダナオから飛び立った偵察隊は未帰還だった。
昭和19年8月にフィリピンから本国へ帰還命令。途中台風に巻き込まれ、肝属川(きもつきがわ)に着水し、難を逃れる。
昭和19年10月に634航空隊はフィリピン進出を命じられ、「2度目のフィリピンで、激戦地。もう生きて帰れない」と覚悟を決めたが、即日、最新偵察機の「彩雲」搭乗員としてフィリピン行きを免れる。(634航空隊は、ほとんど
フィリピンで消耗された)
古い搭乗員で、腕がいいのは水上機乗りしかいないとの判断が働いたのではないかと思った。
「彩雲」はスピードが速く、米軍の艦載機も軽々振り切れた。ただし、フラップが2段階の機体で、揚力が着くのに時間がかかり、揚力まだ十分で無いときにフラップを他の機体のように格納してしまうと、失速する。
実際、配備後20日で3機墜落している。
昭和20年3月15日、それまでに耳がはれているの無理して操縦していたが無理がたたり、岩国飛行隊の教官に。特攻機に搭乗する若者に操縦を教えていた。艦載機の攻撃から霞ヶ浦航空隊へ生徒ごと移動。終戦。
生徒があくまで特攻命令を守りたいとのことで、北海道に機体があるとの話を聞いて移動したが、プロペラがはずされていて飛ばすことはできなかった。
概ね特攻をあきらめて、戦争は終わった。
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