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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
南九州チームが、5月5日(木・祝)に伺った証言の概要です。
宮崎市で3名の方の聞き取りを行っており、そのうちのお一人のお話です。

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本日(5月5日)、午後に宮崎入りをしました。
駅近くの木が南国風で、鹿児島とはまた違った雰囲気を持つ宮崎です。


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◎中西学さん
大正13年6月5日生

昭和17年5月1日
佐世保第二海兵団入団(志願)
8月 
駆逐艦「初霜」に乗船。一番砲塔担当。
10月26日 
アッツ島再占領作戦参加。
昭和18年3月27日
アッツ島沖海戦に参加。
7月7日
第一次キスカ撤収作戦参加。
7月22日
第二次キスカ撤収作戦参加。
昭和19年6月6日
「あ」号作戦 マリアナ沖海戦参加。
10月31日
第二次「多」号作戦に参加 レイテ島増援輸送作戦。
昭和20年2月10日
「北」号作戦に参加 南方から本国への撤退作戦。
4月6日
「天」号作戦に参加 大和特攻作戦。
7月30日
宮津湾で機雷に接触して沈没。
9月1日
退団。

【概要】
昭和17年から昭和20年の駆逐艦「初霜」が沈没するまで砲塔担当として乗船していた体験です。奇跡の作戦といわれるキスカ島撤退、「北」号作戦に参加、また大和の最後も目撃しています。

同郷の友人が先に海軍に志願しており、かっこよかったのと、国のために早く尽くさないと思い17歳で志願。佐世保第二海兵団に入団。
本来6ヶ月の訓練を3ヶ月でこなし、駆逐艦「初霜」の第一砲塔担当になります。
アッツ島に向かう途中、甲板に大波が来て中西さんを含み10名ほどが波に飲まれます。幸い中西さんは甲板の錨を格納する出っ張りにつかまって海に投げ込まれることはなかったのですが、残りは海に放り出されてしまい「戦死」となりました。
その後、アッツ島沖海戦に参加、重巡洋艦同士の砲撃であったため砲担当の中西さんはほとんど働くことはできなかったそうです。すぐ傍で重巡那智の砲塔に直撃弾を受けたのを目撃しています。
キスカ島の撤退作戦では、駆逐艦は直接湾で人員を収容したわけではなく、湾の外で警備だったそうです。途中、濃霧で「若葉」と接触をするハプニングはあったものの作戦を完遂。30分で5,000人の収容に成功しました。
昭和19年6月のマリアナ沖海戦は作戦に参加していますが、後方の補給艦の護衛だったので直接航空機の攻撃、砲撃は受けていません。
大和特攻にも同行しています。呉で急に「いなかに一日帰れ」と言われ、これは何かあると思ったのですが、親に会い、酒を飲み交わしてすぐに戻り、出港してから艦長から「沖縄までの特攻作戦」と言われたそうです。
大和が米軍の艦載機に集中攻撃を受けている間、外をみることができない砲塔の中でじっとしていたそうです。対空戦闘が主なので、砲塔は待機状態。艦橋から艦載機が去った連絡を受け、砲塔を出ると、目の前に傾いた大和があり、突然前方が爆発して、沈んでいったところを目撃したそうです。
その後、米軍艦載機からの攻撃はなく、無事帰還。練習艦として宮津湾航行中に機雷に接触して沈みました。

砲を撃ったことはないのか?との質問に、一度だけ昭和19年2月ごろに浮上した潜水艦に向けて発砲したことがあるとのことです。ほとんど、砲を撃つことは無かったそうです。
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