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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
南九州チームが5月4日(水・祝)に伺った証言の概要です。
この日はさつま町高齢者クラブ連合会にご協力をいただき、4名の方の取材を行っています。
そして、その日のうちに全ての証言概要がメーリングリストに上がってきていました。

◆◆◆

◎田中茂さん
大正15年3月5日生

昭和17年1月15日 
国民徴用令により2年間徴用を命じられる。
即日 海軍通信学校入校。
電波探信儀技術者(レーダー手)。

3月17日 
臨時通信術講習終了。
総動員業務を行う管区を佐世保鎮守府に変更。
 
3月19日
佐世保海兵団入団。

6月4日
第62警備隊付を命じられる ヤルート環礁防衛に。

8月6日
現地志願。 

昭和20年10月28日 
復員のため空母鳳翔に乗船して帰国。

【概要】
電波探信儀技術者として、軍属扱いで第62警備隊とヤルート環礁防衛のレーダー手として活躍します。
ヤルート環礁は、マーシャル諸島の南端にあり、連合軍の激しい空襲に見舞われた島です。およそ8,000機の航空機から5,000トンの爆撃を受けました。
田中さんの仕事は30km圏内に入った敵機の情報を高角砲手に伝えて、正確な対空射撃を支援することです。
空襲は毎日のようにあり、田中さんは「いつものことだから、情報を伝えて防空壕に逃げる」を繰り返していたそうです。警備隊の防空能力は高かったようで、「かなりの確率で敵機を落とした」そうです。
田中さんの近くで死ぬ人は少なかったようですが、まわりの木は裸になってしまい、だんだんと電探基地の場所が隠し切れなくなってきたそうです。
そんなある日、いつものように敵機を発見しましたが、7km圏内でも
基地のほうに近づいてきており、「あ、まずい。逃げないと」と思って防空壕入った瞬間に、電探基地は爆撃の直撃を受けたそうです。
もうもうと土ぼこりがおこり、高い防空能力を支えた電探は木っ端微塵になってしまいました。
昭和19年以後、補給も途絶え、高角砲の弾丸もなくなり、食料も不足しました。幸い、ヤルート島は魚が豊富にいたそうで、「漁労班」を組織して、田中さんと周りにいた200名は餓死することはなかったそうです。
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