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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
四国チーム1班が、5月3日(火・祝)午前中に伺った証言の概要です。

◆◆◆

一昨日、作日の午前中はともにビルマの体験者、同じ部隊の軍曹と部隊長です。

今回のキャラバンでビルマの体験者が多いのは、
四国にはビルマ・55師団関係の体験者が多いはずと
四国4県のパゴダ(ビルマ形式の仏塔)のあるお寺や施設に
電話をかけた成果です(たとえば善通寺とか(笑))。

もちろん他にも
松山には沖縄の体験者がいるはず・・・と言った具合に試みましたが
他は証言してくれる方まで辿りつきませんでした。

昨日の勝浦さん宅は少し郊外。
一昨日の中さんが「勝浦さんの所は分かりにくいからな」と
今朝ホテルの近くまで車をまわして連れて行ってくださいました。
戦友の米寿のお祝いの相談をし、二人一緒に私のデジカメに収まって
中さんは帰っていかれました。
そのあと伺った勝浦さんの証言です。

◆◆◆

◎勝浦守さん

1918(大正7)年5月5日生

1939(昭和14)年1月10日 現役 歩兵第43連隊入営。
同年5月 甲種幹部候補生合格。
同年9月 満州へ。
同年10月 奉天の予備士官学校に入学。(第1期生)
1940(昭和15)年7月 見習士官として内地転属。
 兵隊教育にあたる。

1941(昭和16)年11月19日 香川を出航。
143連隊第2大隊砲小隊。
 駆逐艦・戦闘機の護衛がついていた。
 台湾を経て仏印サイゴンで補給、上陸も許された。

同年12月8日(太平洋戦争開戦の日) タイへ上陸。
〇サイゴンを出航して1~2時間は北上、中国への補充兵のように見せかけていたがその後反転してタイへ。
〇上陸地点は4か所あり、勝浦さんはプラチャップキリカンに上陸。
上陸用舟艇を降ろしたが、浅い湾はその日しけが酷く、兵は皆船酔いして船の中で前の兵隊の背中に吐いているようなありさまだった。
第1段の小銃は警戒されていなかったので敵を通り越してしまった。
重火器は第2段で激しい機関銃の応戦を受けたため、舟艇が引き返したく、「早く降りろ」と足のつかないところで降ろされてしまった。
息継ぎをしながら前進、兵がどんどん降りてくるので嫌でも前へ押し出されていく。
〇その後32時間撃ちあったが、タイとの間に平和進駐の話が成立した事が伝えられた。
戦死者は多かったが、平和進駐であるため、この戦死者はその後も十分に扱われなかった。

1942(昭和17)年1月 ビルマに侵攻。
 バンコクに終結後、ビルマ・マルタバンを目指す。
 ジャングルを切り開きながら進む、馬が崖から落ちて戦死者も出た。
 1月30日モンメール占領、マルタバンからラングーン→ペグー→トングーと北上。
〇エダッセで激しい戦闘があり、急ごしらえの迫撃砲の部隊を作ったら、砲弾のつもりのものが催涙弾だったらしく、煙ばかり出て敵はどんどん逃げてしまった。


同年5月 ミートキーナ着 ここで駐留、マラリアを発症。

1943(昭和18)年 ~4月 第1次アキャブ作戦(31号作戦)。
 この頃ペグーまで連隊教育のため移動していたが、訓練隊を原隊に返すよう命令。
 訓練中の兵隊と一緒にアキャブまで移動するが、到着時には戦闘はほぼ終了。
 戦場掃除がまだ終わっておらず、地雷がたくさん埋まっていて、兵の身体がバラバラになったのを見た。移動の挨拶に来た兵隊が翌日死んだ事もあった。
 
1944(昭和19)年2月 第2次アキャブ作戦(ハ号作戦)。
 英軍に囲まれ食べ物の補給がないまま45日間我慢した。
 食糧は最初近くの部落から強奪したが、それもすぐに無くなった。
 その後は蛇、草など何でも食べた。
 水はクリークの水を濾過して使っていた。
 観測所から見ると英兵は鼻歌を歌いながら撃ってきている事が分かった。
 大隊長から大隊砲で戦車を撃てと言われたが、効果がないのが分かっているので犬死するのは嫌だと言うと、叩ききるぞと言われたが副官がとりなした。
 インパール作戦が始まり、ぱ~っと英軍が引くのが分かった。
 
1945(昭和20)年 5月 ペグー山系に。
 8里ほどの距離を移動するだけなのに2週間かかった。
 廻って廻って夜が明けるころ同じ場所に戻ってきていた事もあった。
 その道中に負傷者が点々としていた。

同年7月 シッタン河の渡河。
 渡河の装備は何もなくイカダを組めと言うだけ。
 現地の丸太船を見つけてきてそこに大砲を乗せ、兵隊は作ったイカダにつかまって渡ろうとした。
 勝浦さんは泳ぎが得意で、漁師の当番兵と一緒に、いざとなったら近くに丸木舟があるからと泳いで渡り切った。
 丸木舟に兵を乗せればもっと助かったのだろうが砲を優先した。
 しかし砲を運ぶだけの兵隊が渡河できず、砲は川岸に埋めて丸腰となった。
 河には上から空のイカダがどんどん流れてきて、曲がるところには遺体が打ち寄せられ河の面が見えないほどだった。
 渡れなかった側の部隊には集中的な爆撃があり、見ていなくても全滅したのが分かるほど。
 予備士官学校の同期の友人を一人残し丸木舟を返すと約束したが、それが出来なかった。

1947(昭和22)年3月22日 復員
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