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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
四国チームが、5月1日(日)に、高知県東洋町で伺った証言の概要です。
これより順次、旅の途中にメーリングリストに流れていた報告を掲載していきます。

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昨日(5月1日)は宿は徳島に置き、高知県東陽町に向かいました。
高知で唯一の訪問先を、旅の途中、高知ビルマ会から紹介いただきました。

一昨日の宇和島からは四国の周りを回る事3/5周。
(ならば逆回りをしようにも間が路線バスで2~3時間ほど鉄道が切れている)
ワンマン電車を二つ乗り継いだ先に97歳の坂本弘勝さんが待っていてくださいました。
坂本さんはアララギ派の歌人(坂本登希夫)でいらっしゃいました。

「屍焼く煙見守るかたはらをビルマ女(め)行けり何の焚火と云ひて」 (歌集 シッタン河)


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◎坂本弘勝さん

1915(大正3)年4月16日生

1938(昭和13)年9月25日 善通寺の工兵連隊へ召集。
 3か月の初年兵教育。
1939(昭和14)年1月 初年兵教育の助手

同年4月 独立混成第12旅団へ転属。
 中国・漢口へ、8月以降鎮江。
〇敵前架橋の任務
  頭の上をびゅんびゅん弾がとび、分隊長で他の兵隊より高いところにいるため恐ろしい。
  膝をついてみたり体を斜めにしたりしていた。
〇要塞を爆破するための決死隊に選ばれる。
  戦況が硬直しここは工兵にやってもらうしかないと言われると、第1小隊第1分隊長としては工兵の面目にかけやるしかない。
  俺と一緒に死んでくれるものはいるかというと5名が手を挙げ、そのあとそろそろと皆手をあげた。
  一番かわいがっていた兵隊と能力の高かった兵隊を選び、爆薬をつけて雪の上に整列したが、出発10分前に、見張りが敵が下がり始めたようですと報告して待機に。
  そうぞ逃げてくれと思っていたらそのまま退却してくれた。
  
1941(昭和16)年4月 揚州たいけんに移動
同年6月 広島から交代要員が来て帰国、除隊。

1943(昭和)年6月18日 2回目の召集 工兵55連隊
〇善通寺へ召集された時、四国全体で4名だけ分隊長工兵が呼ばれていた。
 当時工兵分隊長は何より戦死率が高いと言われていて、お互いに顔を見合わせ、なんと貧乏くじをひいたものよと笑った
 残りの。3名は戦死した。
同年7月2日 工兵55連隊の補充兵100名ほどで宇品出航。

〇ビルマについてすぐアラカン山脈に入りタンガップまで7日歩く。
 到着の朝初年兵2名がマラリアを発症、一人はその日の夜に死んでしまう。
 坂本さんも翌日マラリアを発症して入院。
 このため連隊本部の下士官要員だったのがはずされたのが幸運の付きはじめ。
 病院の食事は茶色いご飯で臭く、塩汁に2切れのかんぴょうかツル。
 40度の熱が8日間続いたが下がったので退院を申し出て、食事の良い連絡所に移る。

〇中隊本部の糧秣係に。
 点在している小隊に毎日食料を配布するのに、ビルマ人が漕ぐ船を使った。
 坂本さんはこのビルマ人を確保する役割で、郡長の所に行き指示書を出してもらい、それを持って各村長を廻り1週ごと交代に各村から人を出してもらった。
 当時は治安が良く、一人で村を歩き回ることができた。

1944(昭和19)年6~10月 ミョーホー(Myohaung)の諜報部隊へ。
 英兵が無線機を持ち2人1組で落下傘降下していた、これを探す仕事。
 本職が警察官(警部補)だったのでそういう人間が集められた。
 ビルマ人が通報してくれるので、村長を巡回して情報を集めた。

〇このころ、昭和19年2月に生まれた長男がミルクが足りず死んだと妻から便りが来る。

同年11月~1945(昭和20)年3月
 師団が第2次アキャブ作戦で英軍の戦車に大きな損害を受け、54師団と入れ替えになって後方のヘンサダに下がった。
 それに伴いイラワジ河に障害物を作る新しい任務に。
 3×3メートルのイカダを河の600mぐらいに渡って並べたが、川底が非常に硬くて錨が効かず、大潮の際みな流されてしまった。

1945(昭和20)年3月27日 ビルマ軍が英軍側に。
〇以降守備の弱いところのビルマ軍による襲撃が頻発、この討伐にあたる。
 あるときビルマ軍の重機関銃(日本製)を奪取することが出来たが、2名の熱中症の兵隊が出て彼らを運ぶために泣く泣く重機関銃を河に捨てた。
 報告すると連隊長は無茶苦茶怒ったが、副官がとりなしてくれ事なきを得た。

(この間にインパール作戦、イラワジ会戦などの敗退)

1945(昭和20)年6月初め ペグー山に3万4千人が逃げ込む。
同年7月20日 この3万4千人を逃がすためペンネゴンの英軍司令部の襲撃要員に。
〇襲撃は先行した徳島の歩兵部隊が成功し実行しなくてよくなるが、この時坂本さんは第3小隊の分隊長。
 もともと第1小隊第1分隊長の坂本さんにとってこれは降格で面白くなかったが、第3小隊の小隊長は指揮能力が無く、行軍の時担架で自分を担がせるような人間で守役が必要だからとなった。
 この小隊長が道を間違え砲撃を受けてカヤの中に迷い込み、シッタン河に出るまで3日。
 せっかく河に出たのに再び部落に戻る指示。一日は付き合ったが、「部落で敵の襲撃を受けたら全滅です、自分は河沿いを行きます」と意見して離れると、自分の分隊以外に2個分隊がついてきた。
 渡河箇所を探しながら移動。
同年7月27日 土手の下で休んでいた時砲撃を受ける。
〇別の分隊がビルマ人の子供と会話、ビルマ軍の巡察隊がその子に尋問し、会話した分隊は巡察隊によって全滅。
 砲撃が始まるがカヤの中に入って逃れる。
〇20日~27日までの間に分隊10中4名がはぐれる。うち2名は敗戦前に捕虜に、1名はのちに自力で合流、1名は行方不明のまま。
〇いよいよ今晩渡河しないと全滅するという事で6名でカヤ玉を付けた竹のイカダを組み、そこに装備をのせ、靴だけ脱がせ、体温が下がらないよう服は着たままでイカダにつかまり、シッタン河に入る。
 一晩流されたが朝方大きなカーブで対岸に上がることが出来た。
 シッタン河では1万人がおぼれたと言われる。
 工兵部隊はあらかじめ渡河用に縄をなって持って歩いており、それが幸いした。

〇上がったものの、まともな食事をしたのは21日が最後で、置いて行ってくれと言われ怒ったが、分隊長が動けず残ることになった他の分隊に2名を残す(のち死亡)。
〇12日目に刈り取った後のサトウキビ畑に出る、根を食べる。
〇徳島の歩兵部隊と合流、行動をともにすることに。
 坂本さんが歩兵部隊の本部に行っている間にビルマ人ゲリラの襲撃があり、分隊中2名が戦死。
 一人は耳が聞こえないのに召集されていたが、砲撃が聞こえないのでぼーっと立ったまま撃たれたという。分隊で残ったのは坂本さんと兵長1名に。
〇食べ物を探しに部落に行って撃たれ兵長が被弾、励ましたが手りゅう弾で自爆した。

〇ビルマ人のいない部落でモミの倉庫を見つけ、久しぶりに30人で2升の米を得る。
 先に通った部隊がすでに食べつくしているため、ビルマ人の部落に食料を取りに入っても成果があったのはこの一度だけ。
 戦後ビルマの中でシッタン河のこちらの岸の領域だけは対日感情が非常に悪く、慰霊で入ることが出来なかった。

〇シャンの道に出る。
 雨季で草が生い茂っている。
 道の両側に毎日百人ずつぐらい死体を見る。10日間歩いて千人は見た。
 自分の骨の髄まで死臭がする。
 小高い所にバナナの葉で出来た患者収容所があるが、奥の方は白骨死体、手前はまだウジが湧いている、そんな所を幾つも見た。

同年8月23日 敗戦を知る。
 集められ振武兵団(55師団、混成105旅団など)の斉藤参謀が天皇詔勅を読み上げる。
同年8月24~28日
 モールメントまで30キロを斉藤参謀の先導をするよう命じられる。
 4日間食べておらずふらふら、糧秣公布所で2升のコメは渡されたので、あわてて4合を炊き一気にかきこむ。
 雨季で道には竹や木が覆いかぶさっている。
 参謀はビルマの馬で移動、この馬に足踏みをさせてはいけない。
 竹や木を斧で切り払いながら先導、本来切ったら補助の兵がのけてくれる役割分担だが、彼も食べておらずふらふら、仕方なく切ってはのけ切ってはのけながら進む。
 初日はふらふらだったが米が食べれるので次第に元気になり、26日はとても元気に。
 27日に疲れが出てきたが28日予定より早くつけた。
 「近来まれにみる下士官じゃ」と参謀に褒められ箱を渡された。
 帰って開けてみると真っ白なタバコが10箱で、兵は米もなくふらふらなのに参謀はこんな白いタバコをまだ吸っているのかと腹が立って腹がったって、箱を投げ捨てようかと思ったが、兵隊に配ると1年半ぶりのタバコに兵隊達は喜んだ。
同年8月29日 無理をしたのでマラリアが再発。
 道路で先へ行ってくれと1時間ほど寝ていたら、体長の当番兵が迎えに来てくれた。
同年9月2日 モールメンの捕虜収容所へ。

1946(昭和21)年7月 ミンガラドン収容所へ移動。
 リバティー船が7隻来て、6隻は復員用だったが、工兵ばかり3000人ほどが集められ、残る1隻でラングーンへ移動となった。
 帰国する兵隊が並んでいる前を通って移送の船に乗った惨めさは忘れられない。
 収容所では英軍の将校宿舎を建てるための木材運び。
同年11月 木材運搬中の事故で腰椎を損傷し入院。
1947(昭和22)年2月半ば 部隊が帰国すると聞き置いて行かれてはいけないので自己退院する。
同年3月20日 広島に復員。
同年5月25日 腰痛が強く仕事への復帰が難しいため警察を依願退職する。
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コメント
この記事へのコメント
坂本弘勝の孫にあたるものです。幼少の頃、東洋町の祖父宅に夏休みになると遊びに行き、記載分ほどではないですが戦時中の体験を聴いて強く印象に残っております。やはり我が経験からか孫には特に食べろとおっしゃる方でして食べ物を色々用意してくれてましたね。
かなり遅れますが、web上にUPしていただき、弘勝共々厚く御礼申し上げます。
2013/11/27(水) 22:50 | URL | 坂本 竜 #-[ 編集]
坂本 竜 様

コメントありがとうございます。
ブログ掲載についてはご連絡しておらず、すみません。
聞き取りに伺った者にも伝えておきます。
いずれは、戦場体験史料館・電子版の方にも掲載させていただきます。

弘勝様は、御自身が戦地で飢えながら過酷な体験をされたのはもちろん、長男を亡くされているとのことで、お孫さんへの重いも特別なことと思います。
証言に触れる多くの方が何かを感じ取ることができることでしょう。
お話いただいたこと、本当にありがとうございました。と、お伝えいただければ幸いです。
2013/11/28(木) 23:17 | URL | しょうみー(ブログ係) #sCdCES4I[ 編集]
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