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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
四国チームが4月28日(木)に伺った証言の概要です。
メーリングリストに流れた旅の様子と共に紹介します。

◆◆◆

曇天の東京を飛び立ち1時間半、海からではなく川側から着陸する松山空港は青天で、空港一面に「坂の上の雲」のポスターがこれでもかと貼られていることに苦笑。
バス停の電光掲示板が電飾にぎやかなCMを流し続けていることと、貼られた「水不足、心まで乾かさないぞ」という標語に(愛媛は今年はこれが深刻らしい)、東京を離れたことを実感します。

今回愛媛での体験者探しに尽力してくださった澤田先生(高校教諭&写真家)が空港まで迎えてくださり、一日先生の車で松山市内を回っていただきました。

以下午前中に伺った堀本先生(澤田先生の以前おられた学校の教頭先生)の証言です。


◎堀本邦雄さん

1928(昭和3)年9月26日生まれ

1944(昭和19)年12月28日 満州国陸軍軍官学校入学(第7期生)

〇旧制松山中学4年生の時、陸軍士官学校を受験。
筆記試験合格後口頭試問・身体測定などがあり、第1次の採用発表がありここでは採用されなかった。その後軍官学校の受験をしないか問い合わせがあり、再試験があって入学が決まった。
当時勤労奉仕で住友鉱山の分析所の研究室に行っていたが、男性の研究員が召集されていないため、まったく知識もないのに研究課題(ビルマスパイスという鉱石からコバルトとニッケルを効率よく分離する方法)が与えられ困っていたので、満州に渡るほうが良いと思った。
陸士61期と同等という意識もあった。

〇第7期生は日本人は371名、朝鮮人4名、中国人600名。
〇満州軍官学校は満州・新京で予科2年の教育後、本科2年は内地の陸軍士官学校で行われた
〇日本人と中国人は連(中隊にあたる)が分けられお互いの接触はほとんど無かった。
 内地で本科が行われるのは原則日本人のみ。
 朝鮮人・中国人で本科を内地に行くのは特に成績優秀な者だけだった。
〇教科・教科書は日本の予備士官学校・士官学校と同じものが使われ教官も全員日本人。
 入学する中国人は皆日本語が堪能だった。
 中国語の授業はあったが特に満州軍としての内容は無かった。
〇情報は学内には全く入らず新聞も見ることはなかった。
 沖縄戦のことも知らなかった。

1945(昭和20)年8月15日 敗戦 軍官学校の解散が告げられた。
〇最初日本軍の飛行機がどんどん頭上を南下していく、町中に青天旭日旗が出され敗戦らしいとなった。
〇日本人生徒で満州に家や行く場所がある者はそこへ向かったが、たいていは行く場所がないので残留し関東軍と行動を共にしようとなった。
〇中国人生徒はすぐにいなくなった、もともと反感が強かったと思う。
 そのまま国民党軍の将校として迎えられた者が多かった、僅かだが共産党軍の将校となる者もいた。
〇朝鮮人生徒も国民党軍や韓国軍の将校に迎えられた。

新京の防衛隊の任務となる。
〇学校の中隊長が満州中央銀行へ銃を持った生徒達を連れて乗り込み金を渡すよう求めたらしい。
 銀行は断ったが銃を持っていたので、どれぐらい脅したかはしらないがこれに応じる。
 翌日ソ連軍が侵攻し銀行のお金をおさえたためこのことはチャラになった。
 このお金は生徒一人一人に配布され、堀本さんも分配を受ける。
 日本紙幣と中国紙幣と半々で生涯見たこともないような大金だった。
 敗戦にも関わらず日本紙幣が一番市場価値を維持しており次いで中国紙幣、ソ連の軍票は嫌われていた。
 このお金で軍を離れ豆腐を買い付け、邦人の子供たちに売らせて商売をした者もいる。
〇弾薬倉庫を警備していたところ満州軍の反乱軍に取り囲まれるが、倉庫を放棄してよいという命令が出たこと、反乱軍にも知り合いが多かった事が幸いし、無血で建国大学の寮に移ることになる。

同年10月末ごろまで 自炊を続けながらソ連軍の使役にあたる。
〇ソ連はあらゆるものを持って帰ろうとしており、それらの貨車への積み込みにあたる。
 トラックでの移動時、食料や衣糧を荷台から道端の在留邦人に投げ渡す事が出来た。

同年10月初め
 体の丈夫な者を中心に230名が先発組としてシベリアに出発。
 この組はブカチャーチャに抑留され石炭採掘に従事、57名が死亡した。
同年10月末
 堀本さんたち86名も出発、ナホトカから帰国すると思っていた。
〇ハルピンあたりで沢山の列車が停滞し進まなくなるが、先の満州銀行のお金で売りに来るものを自由にものが買えたので贅沢ができた。
同年12月 ブラゴエチェンスクに
 荷物の一部をおろし凍ったアムール河の上を倉庫に運ぶ使役があった。
 地元の子供たちがどんどん物品を盗みに来るが凍った川の上を自由に動けず盗られ放題。
 ツンドラ地帯を走るが西に向かっている事には気づかず、バイカル湖を日本海だと思った。


同年12月末 イルクーツク地区のオルハ村に抑留。
 森林伐採、鉄道の敷設に従事する。
〇鉄道は24時間3交代で100キロほどを敷設した。これが今はシベリア鉄道の本線として使われている。
 枕木を先に敷くのではなく、まずレールを並べジャッキで持ち上げて土を周囲から下に盛り込んでいく。
 凍土なのですぐかたまりこの方法で敷設できた。
〇食事は一日黒パン1切れと雑穀の粥、スープは均等になるよう具と汁を分けて分配した。
 顔はむくみ脚は細くなる、シラミと南京虫がはびこる。
 人参に似たものがあり食べると元気になる、しかしたくさん食べるとわけのわからない事を言い出した。
 キノコはどれが毒かなど考えず色のついたものも全部食べたが何ともなかった。
 ジャガイモやキャベツの収穫の時期にはコルホーズでの作業があったのでジャガイモの種芋を食べた。
〇電気は日本人の技術者によりしばらくすると引かれた。
 水は小川のものがそのまま飲めた(人がいないところなので水もきれい)。
〇こちらの86名で死んだのは1名のみ。

1947(昭和22)年1月 凍傷に。
 引き上げのグループに選ばれ移動したところで左足の親指先端が凍傷になり入院。
 指は水ぶくれを起こして赤黒くなる。
 入院しても治療はいっさいなくすることもなく放置。
 2か月して初めてソ連軍の軍医が来たが、同室の患者の膝の手術をその場で始めた。
 麻酔もなく血が飛び散り、のみと金槌を使っている、仰天して卒倒しそうになったので退散。
 このままでは治療もなく帰国グループからも置いて行かれると焦る。
 自分で膿をとっては治った治ったと毎日申請し、間に合ってもとに戻ることができた。

同年3月 ナホトカへ。
 ここまでは共産党教育はほとんどなかったが、ナホトカでは共産党の教育があり、それによって第1収容所から第3収容所へと順に移動した。
 5月1日はメーデーの行進に出かけさせられた。
同年5月 復員

軍官学校は特別な集団だったため今でも結びつきが強い。
中国人生徒も今でも付き合いのある人たちもいて(彼らは文化大革命のときは大変だったが)そういう意味ではシベリア抑留も含め良い経験だったと思っている。
後悔はしていない。

見つかれば逆戻りだが持ち出したという「日本新聞」を会に譲っていただきました!!
シベリア抑留のお話にはよく出てくる「日本新聞」ですが実物を見るのは初めてです。
それから一六タルトもいただきました(笑)
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