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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
東海キャラバンが一度帰還後、2月17日(木)に再訪して詳細を伺ったお話の概要です。
2月15日(火)に伺ったときは、体験者の方がはりきってお友達の体験者の方をたくさん集めてくださっていたため、ご本人の証言も「これから」というところで終わっていました。それが気になっての再訪での聞き取りです。
メーリングリストより転載します。

◆◆◆

◎松下哲造さん

1923(大正12)年11月28日生まれ
 
1944(昭和19)年4月1日 中部131部隊入隊。
同年4月半ば 第7航空通信連隊(三重県)教育隊に転属。

同年8月10日頃
 下関、門司を経て小さな輸送船(130名ほどが乗船、たいしょう丸)で台湾・高雄へ。
同年8月17日 フィリピンを目指し高雄出航。
同年8月18日
 午前9時、米潜水艦の魚雷攻撃、護衛艦や大きな輸送船は皆沈められる。
 日本軍の爆雷で逆に船が動かなくなり浮いているだけ。
 機関士も甲板に上がって、もう駄目だと水杯もやったが、夕方頃、台湾から曳航船が来て引き返せた。
○同年兵2名と松下さんが入院した時、インパール作戦帰りの軍曹から「仮病を使っても何でも行くな、今バシー海峡は絶対沈められるから」と言われた。
 他の2名はその言葉に従ったが松下さんは部隊に戻った。
同年12月初頭
 鴨緑丸でマニラへ。沈められた時船倉にいると死ぬと思い、ずっと甲板にいた。

同12月 第4航空軍司令部暗号班に転属。
 同年兵98名の中から10名が配属、これが生還できた一因だと思っている。

1945(昭和20)年1月 司令官富永中将以下部隊上層部が台湾へ。
 12月の時点ではマニラを死守すると聞いていた。
 正月には雑煮が出、ビール瓶の空瓶が何本も転がっていて、司令部は違うなと思った。
 リンガエン湾への米軍上陸を受けマニラを離れるということで暗号書を焼却。
 サンチャゴ集結だったらしいが初年兵だったので、地名もはっきりした内容も知らない。

 徒歩でサンチャゴに着くと車で移動した幹部はすでにルソン島を飛び立ったあと。 
 富永中将は「諸君だけを死なせはしない、俺も後から行く」と特攻を命じた人物。
 複雑な感じ、みんなそんなものかなと思った。

○司令部が無くなったので、皆各部隊にバラバラに配属にされたが、松下さんはマラリア、テング熱で体調が悪かったので、上官が傷病兵がいる小屋に行くよう気遣いをしてくれ、戦闘部隊に行かずにすんだ。
 体調が良くなってからは各兵団へ水牛でモミの輸送にあたった。
○主に現地民が逃げて空になった民家に寝泊まりした。

○パパイヤは青いうちにどんどん獲る、無くなると木を倒して根を食べる。
 ゴボウ、バナナの実、唐辛子の葉は辛みがあって塩分の代わりに。
 水牛も食べたが空腹時に食べるとお腹を壊す。
○塩が無いのが一番困った。疲れてどうしようもない。
 南方潰瘍が出来て治らなくなる。
 製塩隊を作った。
○やり手の軍属が上等兵と伍長を誘って、こんなところに居たら死んでしまう、いかだを組んで東海岸から中国へ渡ろうと、なけなしの食料を持って脱走。 製塩隊と鉢合わせしその場で銃殺された。
 やむを得ないと思ったが、誘われたら行ったかもしれない。

○栄養失調、黄疸。
 防毒面は一番に棄て、鉄兜も棄ててしまった。
 やっとのことで歩くと元の場所に出る事もあった。
○一番辛かったのは、やっと辿りついて一晩寝るとそのままになって死んでいる。
 その亡くなった人を前の人達が掘った大きな穴の中に埋葬というと、聞こえは良いが投げ棄てる。自分も何時その中にいれられるかなという体。
 一人では引きずっていけないので2〜3人で棄てた。

○分隊長がガソリンが引火して顔中を火傷。
 医薬品もないので耳の後ろに穴が空いてウジが湧いた。
 衛生兵に「ウジだな」と言われてすっかり元気がなくなり、悪くなる一方で亡くなった。
○(今にして思うと)尿道結石で更に体調が悪くなり傷病兵の小屋に下がったことがある。そこでは遺体は川に流した。

○駄目になった軍靴を煮て軟らかくし口に入れたが食べられたものではなかった。
 馬や牛の皮が落ちている時がありこれはある程度軟らかくなった。
 犬は殆どいなくなった。大きなトカゲは良かった。
 鞍傷の出来た馬を殺してこいと言われて困ったが、「殺さないとお前達も・・・」と脅して現地人に殺して貰った。
 馬の調教に当たっていた兵長だけは食べようとはしなかった。

○ゲリラに包囲されて焼き討ちに遭った事がある。
 草原に火をつけられたが叩いてどうにか消せた。
 敗色が濃くなるに連れ現地人は怖がって寄りつかなくなった。

○兵隊は認識票を付けられていたが、死んでいてもそれを取って持って行ってやろうなんていう感じではなかった。
 人のことどころではない、自分がどうなるか分からない。

○南方潰瘍で怪我ではないのに傷口が出来治らない。
 すぐにウジで真っ白になり取っても取りきれない。
 ウジはどんどん大きくなり奥に入り込んでいく。
 手で押し出そうとしても出てこず針金で引きずり出した。
 (今でも両足に傷跡をお持ちです)

同年9月半ば 武装解除。
 部隊を通じて敗戦は1月遅れで伝えられた。
 栄養失調で足は膨れあがり、米軍の野戦病院に入院。
 
同年11月29日 マニラから病院船・高砂丸で浦賀に復員。
 あまりにやせこけた兵隊達が列車に乗ってきたので、娘さんが自分のお弁当のおにぎりをくれた。
同年12月15日 陸軍病院を経て自宅に帰宅。
 やはり見かねたのか、近所の人が自分の子供のための粉ミルクを持ってきてくれた。
 帰国時、身長160センチ、体重35キロに。(出征時は60キロ)
 (野戦病院入院時はもっと少なかっただろう)
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