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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
2月6日(日)、沖縄キャラバン2班からは、伊江島での取材報告が入ってきました。
一部転載します。

◆◆◆

・一人目は昭和十一年生まれ(男性)で、米軍上陸時、伊江国民学校の三年生。四月十六日に米軍が上陸して、すぐ壕に入ってずっと壕にいた。四月二十四日ごろ家族とともに投降。六月ごろ渡嘉敷におくられる。渡嘉敷はまだ戦闘中。終戦後、本島糸満にいき、22年伊江島に戻る。不発弾でけっこう死んでいる。特に伊江島港で、弾薬を海中投棄するために運んでいたLCT(Landing Craft Tank 上陸用舟艇:LSTじゃない)が荷崩れを起こして爆発。連絡船も巻き込まれて100人くらい死んだ。戦後もそんなこんなでたくさん死んでいる。畑仕事するより、スクラップを売るほうが金がよかった。

・自宅のお庭に、水がめがいっぱいあり、そのなかの一つがあきらかに増槽だったのできいてみたら、戦後米軍の飛行機のタンクが家の周りにいっぱいおちていて、それを改造して船にしてつかっていた、とのこと。

・このあたりにほかに体験者がいないか尋ねたら、「いるよ!」ということでいってきました。

・昭和五年生まれ(男性)、米軍上陸時、伊江国民学校高等科二年。本当なら二十年三月に卒業しているはずだが、十九年ごろから飛行場建設に借り出されていたので、授業がなかった。それで戦争が始まってしまったので、卒業してないことになってしまっている。米軍が上陸するまでずっと壕堀。上陸してからは壕を転々と避難。五月ごろに投降。それからは一人目と同じ経路をたどる。渡嘉敷では、米軍と日本軍の間に収容所があった。
・二人目の人は、戦争のことを思い出したくないのでしゃべりたくなかったそうです。

◆◆◆

「この辺に野砲の陣地が・・・」という説明が入ると、やっぱり沖縄だと感じるようです。
伊江島の元兵士の方も紹介していただいたものの、時間の都合で行けなかったそうで、またの機会に、という一言で報告は締められていました。沖縄キャラバンも1度では終わらないようです。

東京に戻ったら、詳しい証言概要を書くということなので、楽しみにしたいと思います。
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