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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
本日、山の手空襲から74年です。
1945(昭和20)5月25日夜間、B29 502機が東京の山の手地域に来襲し、うち470機が無差別に焼夷弾を投弾する絨毯爆撃を行いました。投下された焼夷弾は3月10日の東京大空襲の倍近い3258トン。「東京空襲の総仕上げ」とも言われるこの空襲での死者は3651人。東京大空襲よりだいぶ犠牲者が少なくなったのは、疎開が進んだためと、空襲時の行動指針が避難優先に変わったためだったようです。
赤坂・青山・中野などが標的になり、特に表参道には死体の山ができる状況となりました。
皇居も半蔵門に被弾し、延焼により建物の半分以上が焼けました。これは、誤爆だったということです。
首相官邸もこのとき焼失。
食糧不足にあえぐ大戦末期、国会議事堂周辺にも畑がつくられていたという話を見かけたことがありますが、空襲でこのあたりの建物が焼けていたため、それが可能だったのでしょうか。

日本のほうも、空襲に対して迎撃態勢を整えて臨み、この空襲の際、B29が26機、撃墜または行方不明となりました。
その損害を問題視し、空襲の際のB29の護衛が強化されたということです。

5月のこの時期には、名古屋などでも大規模な空襲が行われています。
4月1日以降、B29の攻撃が、特攻機の出撃基地であった九州に集中していたため、都市への爆撃は一時中断されていました。
その間に、米軍の配備も変わり、改めて都市空襲を行うに十分な態勢が整えられていたようです。
5月27日には、沖縄の第32軍が首里から南部への撤退を決めることになり、沖縄の日本軍は、戦闘も場当たり的に行わざるをえなくなっていきます。
本土決戦の準備のための防波堤と位置づけられる沖縄戦が、避難民を巻き込んでの南部の戦いに進んだ時期でもありますが、本土への攻撃自体を食い止めることにはなりませんでした。
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