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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
今日の体験者の方


◎安田 誠さん

1923年(大正12年)3月生。当時の本籍 福島県
1939(昭和14)年、海軍軍事部勤務
1940(昭和15)年、横須賀市立工業学校夜間入学
1942(昭和17)年、東京高等工学校(現芝浦工大)入学
軍歴
○1944年(昭和19年)4月1日、現役入営
 第7航空通信連隊(三重県多気郡)、暗号班
・8月、豪北派遣隊として宇品出航
 第7航空通信連隊より63名が派遣
 台湾沖海戦に遭遇し反転、台湾・高尾に避難
 パラチフスに罹患し高尾陸軍病院入院
・11月、高尾出航、マニラへ。
 南方に向かう最後の船団、夜間のみ航行
・同年12月31日 マニラ港上陸。
 第4航空軍司令部暗号班配属
○1945年(昭和20年)1月9日
 米軍がリンガエン湾に上陸したため北部ルソンに向け撤退。
 米軍の戦闘機の来襲が激しく夜間のみ移動
 20日近くかけて336キロを移動
・1月26日、北部ルソン・サンチャゴに到着
  ☆この間(一般資料より1月16日)第4航空軍司令官富永恭次が高級将校と台湾に逃亡。
 楠田大隊(第4飛行師団第127飛行場大隊と思われる)に転属
 実際には分隊ごとに10人弱で民家を転用したところに点在しており、
 それ以外の部隊がどうしているかは全く分からなかった。
・3月21日、サンチャゴより北上、カワヤン郡シラウエ部落へ転進。
 臨時第5輸送隊編入 
 バレテ峠の鉄兵団へ籾(食糧)の輸送にあたる。
・5月2日、鉄兵団援護のため南下の命令。
・6月、アリタオ東方コモン到着。
 シエラマドレ山脈のジャングルに入る。これ以後急速に食糧が困窮。
・6月15日、右足脛に貫通銃創
 サトウキビ畑の中から突然自動小銃の一斉射撃を受け、右足脛に貫通銃創、現地の民兵だと思う。
・8月5日、ピナカバン(現マデーラ)到着
・8月末、敗戦を知らせるビラが撒かれたが誰も信じるものが無かった。
・9月半ば 敗戦を知る
 米軍のトンボの様な飛行機がまわってきて、少佐がメガホンで敗戦を伝えた。これで初めて敗戦を信じた。
・9月17日 武装解除。バダンガス捕虜収容所へ。
○1946(昭和21)年12月22日 マニラ出航
・12月31日 佐世保港に復員
○最終階級 兵長
※戦場体験放映保存の会のブログに、安田さんの証言があります。


◎前田幸四郎さん

所属師団:電信第2連隊第4中隊(山下奉文大将と共に) 
第14方面軍(通称:尚武集団 総兵力15万2千名)に所属した電信連隊で、通称号:威5103
※前田さんの証言はつづきからどうぞ
〇1925年(大正14年)1月 フィリピン・ルソン島で生まれる
・ご両親は福井県出身で、父は宮大工。18歳の時にマニラに移住し、そこで大工として働く。(フィリピンのケソン元大統領の別荘なども建設した)
・前田さんは7人兄弟の次男として生まれる⇒4歳の時、家族で帰国し、兄と前田さんだけ日本の叔父の家にそのまま残され、福井県の学校で教育を受ける。
〇1937年(昭和12年) 
・盧溝橋事件が勃発し日中戦争に突入する中、心配した両親が前田さん兄弟を迎えに来て、マニラに戻り、そこで大工を始めた。
・日中戦争が始まって、日本は国民党を支持するアメリカ・イギリスと敵対関係になり、徐々に日本人の仕事が減っていった。⇒前田さんは住み込みで写真館で働く。
〇1941年(昭和16年)12月
・真珠湾攻撃によって太平洋戦争が勃発するやいなや、16歳だった前田さんはフィリピンの警察に連行され、収容される。最初は男性だけだったが、最終的には女性も収容された。約1ヶ月、在留邦人360人ほどが避難生活をした。ただし、食料などは予め用意してあったため、そんなにひもじい思いはしなかったそうです。
〇1942年(昭和17年)1月
・日本軍がマニラに進撃し、前田さんたちは本間雅晴司令官を万歳や提灯行列で迎えた。しかし、収容所から解放されたものの、家に帰ると一切の家財道具が略奪されていた。
・前田さんは写真館での仕事を再開⇒その時、韓国や中国人慰安婦の写真を沢山撮った。(その頃は彼女達がどういう存在なのかは分からなかったそうです。)
・その後、写真館から台湾鉄工所に職場を変え、18歳まで働く(現地のタガログ語、英語、日本語ができたので、通訳として重宝された)
〇1944年(昭和19年)8月
・18歳から35歳までの在留邦人男性に徴兵検査が施行され、徴兵される。
・初年兵教育では、厳しい体罰が待っており、お互いを殴らせるので、顔が真っ赤に腫れあがった。
〇1944年(昭和19年)10月1日 出征
・前田さんは19歳、そして35歳だった叔父さんも妻や幼い子供3人残して兵隊に行く事になった。
・出征の日、叔父さんの妻や子供たちが『お父さん頑張って!』などと叫んでいたが、叔父さんは一度も家族を振り向かず、歩いていった。その叔父さんの顔を前田さんが覗き込むと、大粒の涙を流していた。この叔父さんの妻と子供たちは後に手榴弾で自殺したそうです。
〇1945年(昭和20年)4月ごろ
・前田さんの所属する電信第二連隊は山下司令官と行動を共にする軍司令部の無線部隊。
・戦況の悪化とともに神風特別攻撃隊が編成され、続く人間魚雷や回天など、体当たり攻撃が作戦の主流になっていくが、マニラ防衛は敵わず、山下司令官はルソン島バギオに転進する事となり、逃避行が始まる。
・その途中、サンホセの町に家族が同じく逃避行して来ていることを知り、涙の再会を果たす。その時は全員無事だった。再会の間も古参兵が見張っていた。
・軍隊はようやく山を越えてバギオに到着したが、翌日、米軍の空襲で町は丸焼けになる。
・最終目的地のイフガオキヤンガンに移動中、アシン川を歩いて渡っている時、自分から30センチほどしか離れていない場所に機銃掃射があり、危うく命拾いした。
・続く空襲で沢山の在留邦人や日本兵が死に、顔首手足があちこちの木に引っかかっている光景を目にした。まるで地獄絵のようだった。
・ある日、壕の中で通信作業をしていて、ガス中毒になって倒れてしまったが、偶然見つけられて九死に一生を得た。
・そこも引き揚げる事になったが、動けない負傷兵などは連れて行けないと上官が命令し、衛生兵が注射を打ち、まだ生きているのに毛布にくるんで針金で縛り、そこに生き埋めにしてしまった。
・前田さんの同年兵の内山上等兵も手をあわせて「助けてくれ」と言ってきたが、何もしてやることが出来なかった。未だにその友人の顔が忘れられないと語ってらっしゃいました。
・食べ物は無く、ヘビなども生のまま食べた。
・日本兵が原住民の子供を捕まえて食べようと相談している話を聞いたことがある。
・戦友は飢えとマラリアで次々と死んでいった。
〇家族との再会
・行軍の途中で、再び逃避行中の家族と再会。体格の良かった父は食べる物がなくてやせ細り、変わり果てた姿になっていた。その時すでに、前田さんの弟一人と、叔母さんの息子は亡くなっていた。
<その時、お父さんから聞いた話>
どうしても子供に食べさせる物が無くて困っていた時、日本兵が近くにキャンプしていたので、「子供のためにご飯を少しだけ分けてもらえないか」とお願いすると、「水を汲んでくれば分けてやる」と言われたので、弱った体に鞭打ちながら谷底の水がある場所まで降りて行き、水を運んできた。しかし、日本兵は、「まだ炊けてないからもう一回汲んで来い」というので、もう一度汲んでフラフラになって帰ってくると、そこにはもう誰もいなかった・・・。
・暫しの再会を喜んだのもつかの間、すぐに隊に戻ったが、それが両親、弟、妹との今生の別れになってしまった。前田さんは、その時非常用に持っていたわずかな食料をあげなかった事を今でも悔やんでいるとおっしゃっていました。
・一番上の兄は愛国挺身隊に入隊し、吸着爆弾を抱いて敵戦車に突入し、戦死したと後から聞いた。
〇1945年(昭和20年)8月16日
・米軍機から日本が降伏したという宣伝ビラが撒かれたが、それまでにもビラは撒かれていたので、投降勧誘ではないかと半信半疑だった。
〇1945年(昭和20年)9月
・終戦から約1ヶ月後にようやく武装解除され、山を降りる。
・あんなに苦労して登った山に、立派な道路が出来ており、ビックリした。
・収容所では叔父に再会することが出来た。
・また、在留邦人の生き残った人たちがいるキャンプに行って、唯一残った妹二人とバリケードを挟んで会うことが出来た。その時、両親や弟が亡くなったことを知らされる。上の妹はたった11歳で父母の亡骸を埋め、弟や妹たちの食料を調達していた。
<その時、妹たちから聞いた話>
ある日、日本兵が来て、「何か金目のものと米を取り替えてやる」というので、妹は父母の形見の時計や指輪を渡した。日本兵は「今持ってくるから待ってろ」と言ったきり、いくら待っても戻らず、翌日になっても戻って来なかったので、やっと騙されている事に気づいた。
〇収容されている間
・戦争犯罪者の上着を着て、マニラ市街の復興作業などのために歩くと、現地の人たちから石を投げられたりした。
・しかし、しばらくすると前田さんの言語能力を認められ、収容所内で重宝されるようになる。他の人より食事などの待遇も良かった為、隠しておいて、みんなに分けてあげた。
〇1946年(昭和21年)3月 帰国
浦賀に着く途中、船上から初めて美しい富士山を見た。
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