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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
信州・北陸チーム第2班が、8月30日(月)に伺った証言の概要です。

◆◆◆

◎小野澤熊一さん

1917(大正6)年2月25日生まれ

●1943(昭和18)年5月5日 召集
○背が低いため第2乙
○金沢に入営、通常は宇都宮での教育召集だったので外地かなと思っていると認識票を渡される。
○行き先は教えられなかったが偶々営内で佐久の同郷の先輩に会い、自分たちと交代で満州に行くのだと聞けた。

●満州453部隊(牡丹江省樺林) 輜重兵
○下関、釜山を経て牡丹江省樺林へ。
○当初は訓練中に倒れ医務室で過ごすなど病弱と思われてしまった。
 その一方で動きなどは“はしっこく”要領も良く、声も目立つよう思いっきり返事をしていたので、小野澤を見習えと言われたりもした。
○1期検閲は80人中27番。
 まあ仕方ないかなと思っていたが、秋に胃けいれんを起こし、発熱で入院寸前に。病院に送られたくないので懸命に熱を誤魔化す。

●1944(昭和19)年
○春の野外演習には身体が弱いという事で残る馬の面倒をみるよう残された。
 しかし残っているところで巡察の週番士官の訓練の質問に率先して答え、目にとまる。
○1選抜の上等兵に。
 予想外の事だったが2度目の召集の同郷の古年兵達がかばってくれたので、苛められることはなかった。  
○同年11月 興安嶺に移動
●1945(昭和20)年
 満州で現地召集された初年兵達の教育係りに。3ヶ月ぐらい。

●突然本部に呼び戻され転属命令が出る。
 (敗戦直前のことで部隊名は記憶にない)
 別れも言えず未明に出発、列車でチチハルを経て数日かけ東寧に。
○8月8日(転属翌々日)
 大隊長以下将校達の町の視察があるので乗馬で指揮をとるものを探す。
 輜重隊は馬は扱うが乗馬に長けた者は少ない。
 立候補して指揮を務める。

●8月9日 ソ連参戦
○夜中にラッパで起こされソ連参戦を知る。
 馬8頭の受領命令が出て砲弾が頭のうえを飛ぶ中、東寧の町に取りに行く。
○8月10日夜 部隊出発
 夜中の2時頃襲撃を受けた青少年義勇軍の少年達が宿舎から抜け出し合流。
○8月11日
 ソ連機の機銃掃射を受け馬の隊列の前半が大部分つぶれてしまう。
 隊列の後半は前に馬の死骸があって動けなくなり、どんどん荷車を馬から外し土手下に横倒しで落として、逃げろ逃げろとなった。
 部隊は古参兵がおらず武器や食糧は殆ど馬車に積んで空手で歩いていた。
 そのため部隊はここで殆どの食糧と武器を失ってしまう。
 小野澤さん自身は土手下に飛び込んだりはい上がったり繰り返したが、2機の機銃掃射に狙われ立木が激しく揺れてその木にしがみついても震えが止まらない。
 飛行機が去っても腰が抜けて立てず、立っても足が動かず、5~6分身体を叩いて最初は這うように少しずつ歩き出せた。
○中隊長が「決して捕虜になってはいけない」と言い、目の前の箱から「1人1発ずつ手榴弾を取るように、1人1発ずつだぞ」と命令。
 両手を箱に突っ込み二つの手榴弾を握ると中隊長が睨みつけたので睨み返すと、何も言わなかったので2発貰った。
○8月12日
 何も食べないままの行軍2日目、小野澤さんは手ぬぐいしかない。
 私物が残っていた者も重いものは持って歩けないと荷物を捨て、馬は白樺の木に繋いで置き去る。
 川で必死に水を飲む。
 目の前の他の部隊に「最後の乾パン食べ」の指示が出る。
 それを見て食べるものがなく身近の草をちぎって口に入れたら涙が出た。
○8月13日
伝令が分隊長に来て「完全武装で本部前に集まれ」
 分隊長は見習い士官で意味が分かっていない。
 「来たな」「何が?」「特攻ですよ」
 もう一人また伝令が来て今度は小野澤さんに完全武装での集合命令がかかる。
 銃もなかったので借りていく。
 集められたのは12名、戦車が2台来ているのでそれを止めてくれ。
 部隊には食糧が殆どなかったが炊きたてのお握りが用意され、中隊長がそれを手に載せて「小野澤頼んだぞ」と一人だけ名を呼ばれた。
 前日の手榴弾を2つ取った根性を見られたのではないかと思う。
 「お国のために死んでくれ」と言われ血の気が引くのが分かった。
 ぼおっとして歩き出したが何かにつまづいてふと我に帰った。
 皆でむすびを食べ、また黙々と歩く。
○戦車が通るとしたらここしかないという狭いところで待ち伏せするが通過せず。(のちに戦車は工兵が撃退したらしいと知る)
 村で豚や牛やアルコールを貰い栄養補給。
 1週ぐらいして、敗戦となったから帰ってこいと本部より連絡。
 この1週間で特攻に選ばれたメンバーはかえって体力を回復した。
 そうでないメンバーは山中でさらに食糧のない生活を続けた。


●ハバロフスク第3収容所に抑留。
○冬の伐採も夏の百姓仕事も信州の山育ちだったので比較的問題なくこなせた。
○体調が悪くなった時もソ連参戦の時行軍を助けた若い兵隊達が逆にかばってくれ、炊事場係に行くことが出来たので助かった。

●1947(昭和22)年10月下旬 舞鶴に復員。
 ハラショーラボータ(良い労働者)が先に50人帰された。
 11月15日 帰宅。
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