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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
四国キャラバン11月24日(土)の様子です。
11月25日(日)の昼ごろにメーリングリストに流れたものです。
今日・明日の後の()内はブログ係による補足です。

◆◆◆

昨日(11月24日(土))は徳島キャラバンでいつもお世話になっている二條さんのご紹介・ご案内でお二人を訪れました。

野口カネ子さん(92歳)は、尋常小学校高等科卒業後地元の筒井製糸に軍隊用の乾燥芋の製造に駆り出されていましたが
(朝ドラで話題の根菜切断機でスライスされた芋を、乾燥させるためベルトコンベヤーに並べる作業だったようです)、徳島にはろくな徴用先もないしと、姉の嫁ぎ先である大阪に。

姉の家の近くに大阪市電の築港車庫があったので職員に応募。
三か月ほどの研修で車掌になりますが、若い男性がいなくなったためさらに短期間の訓練や年配運転手についての見習いで運転手になります。
運転手にはさすがに年齢制限があったらしく、友達が先に運転を始めたのを羨ましく思っていましたが、ほどなく野口さんもデビュー。

「いやー、若気の至りよね、あんなんでどんどん運転して」と笑う野口さんですが「田舎者で真面目だったから、日曜日とか遊びに行きたいという人とどんどん代わって」せっせと働いた結果、月の稼ぎは90円に!(当時の満鉄職員クラス)、家に40円は仕送りをしていました。

空襲の警戒警報の時は、「電気を豆電球みたいに暗く落として走った」そうで、そんなある日上本町6丁目を運行していた時に空襲に遭い、急な呼集で近くの連隊に向かうらしい兵隊さんが車両から降りたとたん足を焼夷弾でえぐられ倒れましたが、助けようにも後ろから車両が詰まっているし、とにかく早く列車を出せと言われてそのままに。
運行は続けて車庫に戻ると寮は全焼していました。

この空襲がいつのことかは不明で、日中の出来事だったと言われるので、3月13日・14日の一次大阪大空襲ではありませんし、かといって大きな空襲の記憶はお持ちではないのでその前の散発的なものなのか少し調べてみようと思います。

実家から送ってきた芋や豆を、親しい人たちにおすそ分けを済ませて自分は翌日に食べようと楽しみにして取ってあったのも、可愛らしい下駄を買ってまだはかずに並べてあったのも全部焼けちゃってと、本当は箪笥貯金だったので貯めたお給料も全部焼けたはずだし本当に着の身着のままになってしまっているのですが、残念に思い出すのはそういう事なのだなと思いました。

何もかも無くなったし、お姉さんも出産で帰京していたので、殆ど誰とも会わずにそのまま帰京。
戻ると故郷では市場飛行場の建設が始まっていて、祖父母の家や田んぼが該当地に入っており、立ち退きで1万数千円貰ったとおじさんが初めて見る1万円札を皆を集めて見せました。(戦後そのお金は返すことになったと思うとのことですが、返却割合には諸説あります)

敗戦後、進駐軍が来ることになり、女性は襲われると言われて鍋窯の炭を付けて山奥の竹やぶの中にある親戚の家を頼ったそうで、家に戻った後も、今度は市場飛行場の残留爆弾を爆発処理すると言われまた地区じゅうで避難(これは頼み込んで海中投棄になった)最初から最後まで聞きどころ満載のお話でした。
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