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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
四国キャラバン11月23日(金・祝)の様子です。
11月24日(土)の朝にメーリングリストに流れたものです。
今日・明日の後の()内はブログ係による補足です。

◆◆◆

昨日(11月23日(金・祝)は高知市内で国本留歌さん(97歳、大正10年5月生まれ)のお話を伺いました。

国本さんは、四万十町の農家、7人兄弟の5男。進学は考えられない環境でしたが、お姉さんが買ってくれた少年倶楽部に載っていた募集を見て逓信省の大阪逓信講習所を受験。賃金が払われて技術を身に付けることが出来、寮制で、当時は逓信省と鉄道省にだけこういう制度があったそうです。
受験費用は親に頼み込んで出してもらい、合格しました。

昭和17年現役入隊すると、地元40師団の通信隊に配属されて中国へ。
技術をかわれてすぐに第6方面軍司令部や20軍司令部で無線の通信兵として働くことになります。

各師団の戦況を受信し、命令を送る仕事で、基本的には定期通信ですが、それ以外も受信機はずっと耳に付け、勝手に違う周波数にも変えて米軍や中国軍の通信を聞いていました。
日本軍も作戦ごとに暗号は変えていましたが、実際にはすぐにばれてしまうようで、解析されていたのかスパイがいたのかは分からないけれど、米軍の通信内容から自分たちの通信が解読されていることに気付くこともあったと言います。

司令部の通信兵ですから、基本的に前線に立つようなことはないのですが、司令部用に中国人医師の立派な家を接収した時、二階に上がると洗濯板と真っ白な女性用の足袋がありびっくり。
家人はもう避難をした後で周りの農民に聞くと、日本で医学を学び、日本人女性を妻に連れ帰った人が住んでいたようで、その時は自分たちが来なければ平和な生活があったのにと、とても申し訳ない気持ちがしたとおっしゃってました。

もっともその家の床下から隠されている大きな塩の壺を見つけ早速接収、現地の人たちにも配ったので拝まれたとのか・・・。

物資に困るような部署ではありませんが、敗戦時少し食糧の輸送が途絶えた時期があり、現地の稲刈りをしたり、草取りをして
物を貰ったりしたことはあったそうです。

敗戦も米軍の無線を聞いている時に知ったそうで、南方の戦況も、本土の空襲や原爆も知ってはいましたが、それでも本当に思いもかけない驚きだったそうです。
敗戦した国に帰っても仕方がないし、このまま中国にいようという動きの噂はありましたが、国本さん自身は早く帰りたいと思ったと。
通信機は中国軍に取られるのはと思い揚子江に投げ込みましたが現地の人に通報されて引き揚げろと命令され、仕方ないので
数基だけ引き揚げてごまかしました。

復員は21年6月、20軍全体が引揚げを終わってから戻ることになったので、そこまで時間がかかったけれど、当時は、陛下から預かった兵隊を全部返すことが出来て良い仕事をできたという気持ちだったとそれは何度も繰り返しておられました。

97歳でいらっしゃいますが、戦争の話を聞いてくれたのはあんたが初めてと言われた聞き取りでした。
今日は徳島、いつもお世話になっている会員の二條さんが掘り起こしてくださった二人の方に会いに行きます。
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