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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
四国キャラバン11月22日(木)の様子です。
日々、翌朝までには現地からの報告がメーリングリストに流れていたのですが、私が転載するタイミングを外しました。すみません。
今日・明日の後の()内はブログ係による補足です。

◆◆◆

連休に資料館開館日を一日付けて四国に聞き取りに来ています。
3日間で3県4名を回る、沖縄をのぞけば久しぶりにキャラバンらしいキャラバンです。

昨日(11月22日(木))は早朝に東京を出て陸路香川県に。
キャラバンの常ですが乗りなれない電車(2両編成)がワンマンに変わるとボタンを押しても空かなくなる扉があるらしい張り紙があるのに車掌さんの姿が出たり消えたりなことに物凄くハラハラしたり、海岸沿いの物凄くギリギリを走るため海側の反対座席から見るともう海の中を走っているようにしか見えないことに驚いたり(千と千尋の神隠しみたいな風景)、そんな旅情も味わいながら目的地の三豊市高瀬駅に。

駅では3名のご老人がお出迎え。
お話しを伺う政本道一さん(97歳、大正10年5月生まれ)と一緒に地元の小学校を回っている「平和を守ろう会」の方々が車を出して下さることになっていたので、その方々だろうと思ったのですが、「私が事務局長で、こちらが会長で、こちらがご本人」とさらっと紹介。お二人の80代前半の方と見分けもつかず殆ど同じ感じで立っておられたので一瞬聞き間違えたかと仰天しました。
ご案内頂いたのは、政本さんご自宅脇の広々とした土間のような空間で、一面に絵手紙や彫刻、戦争関係の展示物が並びギャラリーになっています。

政本さんは、善通寺の陸軍病院などで教育召集を受けたあと一度除隊になりますが、すぐに再召集。
今度は生きては帰れないなと怖くなったとのこと。
先ほど待ち合わせた高瀬駅から見送られ善通寺の部隊に入隊。即日高松に向かい翌日には宇品から出向。一月をかけて東部ニューギニア・マダンの兵站病院に送られました。
1943年春のことです。

兵站病院はまだ建築前で、ジャングルを切り開いて木材を作り何棟もの病棟を立てる重労働で、建設後は各地の野戦病院から兵站病院の患者の輸送最初の状況がまだ許す頃にはパラオへの患者の後送も担いました。
薬が無いので麻酔薬無しの手術で患者を押さえつけたことは幾度も。最初の頃は負傷兵と病気の兵隊は半々で、砲弾で頭や顔を砕かれた兵隊も多く観たと言います。

当然遺骨をとる余裕はなかったのですが、死んでいく兵隊があまりに可哀想で、政本さんは遺体の髪を切りそれをカルテのような用紙に貼って保存整理をしていたそうで、戦後も衛生兵用の繃帯嚢に入れて持ち帰り、木彫りをした仏様と一緒に全国のご遺族に送りました。
そのため最期の様子を聞くために訪ねてくるご遺族も絶えなかったようです。

しかしそのうちに兵站病院部隊自体がさ迷うことになり、海岸を歩いたり、船に乗ったり、撤退を繰り返し、次第に他の部隊と混ざっていきます。
タロイモや魚を採り、海水で塩を作り、カエルぐらいは生で食べ、人食い人種がいたものの、マッチや、なぜか下痢に効く歯磨き粉を渡すと食糧を持って来てくれたそうです。

ニューギニアの戦場は地獄と形容されることが多いですが、それに負けず劣らず、ニューギニアに着くまでのひと月、何処にいるのかも何処に向かうのかも、時には今日が何日かも分からず、他の兵隊とそういうことを話すのを禁じられ船で運ばれていった時間が苦しかったと幾度も繰り返しておられるのも印象的でした。

同席された「平和を守ろう会」の方々は地元上高瀬の遺族会の方々で、政本さんの絵手紙の中で戦争を扱った一群があるのを目にして、それを紙芝居にし、政本さんが年を重ねてもお話を続けやすいよう資料や道具の整備、お話先の開拓など熱心にサポートしておられました。
この紙芝居は小学生向けと考えると結構ハードコアで頼もしくまだまだこういう環境もあるのだなと思いました。

昨晩はそのあと高知入り、今日は高知市内での聞き取りです。
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