FC2ブログ
あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
年が明けましたが、全国キャラバン「夏の陣」の証言概要を掲載します。
イベントやミニキャラバンが入ったため、伺ったお話の概要をまだ紹介できていなかった方がいらっしゃいます。引き続き掲載していきたいと思います。
8月29日(日)午前に、信州・北陸チームが伺ったお話の概要です。

◆◆◆

◎山浦哲雄さん

大正9年10月生まれ

1939(昭和14)年 渡満
○とにかく外国に行ってみたかった。
○師道学院(満洲の師範学校)に入学して1年半の教育。日本人、満州人がいた。
○小学校の先生に、日本人の学校、満洲の子供たちの学校、双方で教える。
 満洲の子供たちで学校に行けるのは1割程度の裕福な子供たち。
 中国語、日本語両方教える。八紘一宇なども教えたが、子どもたちは学校に行けるのが嬉しいというスタンスだった。

1944(昭和19)年 召集
第38部隊(←※ご本人の記憶) 
○痩せていたので自分が砲兵に呼ばれるようではもう日本はだめだと思った。
 妻には早めに帰国するように言った。

8月9日 ソ連侵攻
 砲撃が激しく山中に逃げ込む

8月15日 敗戦
○玉音放送を聞いたが分からず。
 部隊長から敗戦だからここで解散だと言われるが、行くあてがあるはずもない。
 思い思いに散開。
 戦友と二人で行くと慰安婦を20名ほど荷台に乗せた車と行き合う。
 運転手から山の向こうに日本兵が投降して集まっていると聞く。
 「兵隊さん連れていって」と言われるが投降するのだからそうはいかないと返事。

8月20日ごろ
○牡丹江に行く道に腕や足がない負傷兵が10数人ごろごろ転がっていて水をくれと呻いている。遺体もあってウジがわき膨れて、鼠がかじっている。
○遺体を埋めたいと思ったがソ連兵は「ソ連にはむかったのだから仕方ない。そのままにしておけ」と言って手を出させてくれない。
○開拓団は年頃の男性はいないので、年寄り、女性、子供えだけで荷車に布団を積み移動していく。乞食の集団のよう。

9月
○一度シベリアに送られたもののソ連人医師のチェックで極端にやせている者はいったん満州牡丹江に帰された。
○しかしこの牡丹江も食糧不足が深刻で死者がかなり出た。
 ぼた餅を食いたいなと言っていた戦友も朝冷たくなっていた。

1946(昭和21)年 中央アジア・タシケントに移送
○この時もダモイだと言われた。
○移送の列車の中でこっくりさんが流行った。
 先のこと(帰れるかとか何処へ行くかとか)は占ってくれないが起こったことは教えてくれる。
 家は焼けたかどうかとか、兄弟は戦死したかとか皆で聞いた。
 こっくりさんんは人の良いぼっちゃんに移らせた。
○100人ぐらいでレンガ工場、製材、伐採、建築に分かれた。
 レンガ工場に行きたかったが建築に、結果的には一番楽だった。
 ノルマはあったが日本人はよく働くと評判が良かった。
 今でも学校や教会、マンションなどが使われている。
 監視役のウズベキスタン兵はおおらかで行動にあれこれいうことはなく、市場でものを買うことも出来たので食糧の苦労はなかった。

1948(昭和23)年 復員



スポンサーサイト



コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://senjotaikenhozontabi.blog2.fc2.com/tb.php/341-448bfe8b
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック