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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
明日、福岡高裁那覇支部にて、南洋戦国賠訴訟の口頭陳述があります。
6人の体験者の方が、原告として陳述されます。
当初は9人の予定だったのが、調整されたようです。
陳述されるのは、以下の方々です。

○島袋弘さん 戸籍上1935(昭和10)年2月3日生、実際には1936(昭和11)年11月
サイパン
投降の際、父は米兵に射殺される
母はこの時の負傷がもとで破傷風で死亡、3歳の妹は栄養失調で死亡
弟とそれぞれ別の親戚の家で育つ
(同じ集落なので兄弟の交流はあり親戚も有力者で環境は悪くなかった)

●祖堅秀子さん 1938(昭和13)年8月10日生 サイパン
両親と4人の兄姉妹が死亡、兄姉本人の3名が生き残る
本人はバンザイクリフまで行ったが生還
長兄(敗戦時成人)の元で育つ

○國吉眞一さん 1930(昭和5)年6月9日生 テニアン
父は現地召集で戦死、母、弟2名、妹が艦砲射撃で亡くなる
2人の弟たちと伯父の家で育つが、3人で世話になるのは気が引け
18歳で家を出る
艦砲射撃の破片が足に入っていたのが悪化して動かなくなり
定職に就けず、一時は車椅子生活に(今は人工関節で動ける)

○喜瀬光子さん 昭和9年10月11日生 テニアン
弟が生後3ヶ月で泣くため壕から出たとたん艦砲射撃に直撃される
両親、妹2名、弟がここでいなくなっているが
飛ばされてしまったのか、自分も意識を失ったのか遺体は見ていない
顔も知らない親戚をたらい回し。13~14歳の頃
入れて下さいと孤児院に1人で行ったが親族がいるからと断られる
家を出て食堂での住み込み、18歳からは軍作業に出るが
身体が弱く鬱病も患い入退院も繰り返す

○瑞慶山シズさん 1938(昭和13)年8月8日生 ミンダナオ
父は軍の奉仕作業に出て病死(米軍攻撃前)
母は砲弾を受け即死、五女は栄養失調死
三女は逃避行中に行方不明
長女、次女(本人)、四女が帰国
叔母の家で育つ

●阿良光雄さん 1938(昭和13)年3月17日生 パラオ
パラオからの疎開船が2回撃沈され、姉と弟が死亡
母と本人は負傷
パラオで現地召集された次兄(14歳)はペリリュー島で戦死するが
戦死通告もない。同じく現地召集された父と長兄は復員


今回の陳述が終わると、次回は結審となりますので、今回が山場ということになります。
これだけの方のお話が聞ける機会はもうありませんので、関心があって那覇まで行ける方は傍聴されることをお勧めします。
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