FC2ブログ
あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
まだ茶話会参加者名簿に出ていない、37人目の体験者の方について、メーリングリストに証言概要が上がっていましたので、転載します。

◆◆◆

水野章さん(91)
収録日:平成30年8月13日
所属:三重海軍航空隊奈良分遣隊(甲種飛行予科練習生・第13期後期)~川棚臨時魚雷艇訓練所~光基地~第2特攻戦隊大神突撃隊
戦地:内地(奈良県天理市・長崎県川棚・山口県光・大分県大神)
―――――――――――
〇1926(大正15)年11月18日、福島県郡山市生まれ。

・実家は農家。
・7人姉弟の末っ子だった
・姉弟で3人が戦地に行った。一番上の姉の夫は現役と召集で3回ったが怪我をしただけで帰ってきた。兄も怪我もしないでそのまま帰ってきた。それで数えたら私の身内で20人が兵隊にいったことになるが、そのうち誰一人死んでない。そういう運のいい家族もある。
・当時予科練の募集が全国の中学校へみんないったらしい。それで担任の先生が募集の希望をとったんだけど誰もいないんだ。郡山にいたけどね、福島の真ん中で、海が近くにないから誰も行く人いなくてね、それで私もおもしろ半分にグライダー部に入ってグライダーに乗ったりしていたから、「お前どうしたんだ」っていわれてね、「お前が行かなければ誰が行くんだ」って。それで志願して予科練いったんですよ。
・郡山商業学校5年生の時に志願。4年生や3年生など全部で15,6人が予科練へ応募したが合格したのはたったの2人だった。
・あの当時、実業学校は三か月繰り上げで12月に卒業することになっていた。ところが卒業式をしないで兵隊にいったので卒業証書をもらっていなかった。戦後に作ってもらったが、その当時の校長がいれば昭和18年の日付でもよかったが、いなかったのでかわりにその時の校長の名前になった。だから日にちが昭和50年になっちゃった。一緒にもらった人は息子も同じ学校を卒業していたので、「俺息子の後輩になっちゃった」と言っていた。珍しいから自宅に掲げておいてある。
・あの当時はどこでも兵隊にいくのがあたりまえだから、両親も「なにお前もいくのか」ぐらいでそれ以上話はなかったよね。涙もないよ。

〇1943(昭和18)年12月1日、三重海軍航空隊奈良分遣隊に入隊(甲種飛行予科練練習生・第13期後期)

・13期は前期と後期がある。私はどっちでもいいと思っていたので後期になっていた。
・予科練といえば土浦海軍航空隊だったけれども、そこがいっぱいになって三重の航空隊ができた。そこもいっぱいになったので奈良の天理市にあった天理教の宿舎に1万人くらい入った。海軍の兵隊が海なし県に入隊したことになる。
・天理教の信者の宿舎だったので畳だった。だから私は海軍の兵隊だったけどハンモックなんかみたことない。
・はじめから七つボタンの服で水兵服は着なかった。
・予科練では飛行機の訓練にはまだいかないから、基礎訓練で学科ばかりやっていた。
・最初は39分隊だった。それから操偵に分かれて、私は偵察の方に行った。
・班長は外地から一時帰国していた下士官だった。一番の班長にあたるとしょっちゅうぶん殴られていた。
・自分が悪くなくても誰か同じ班のうちで1人が悪いことやると、連帯責任だとかいってみんなぶん殴られた。
・19年7月に休暇が一週間くらいあって実家のほうへ帰った。
・休暇が終わって帰ったら、なんかあんまりよくなれない。「おかしいなあ」と思ったら、「これから司令から重大な話があるから」と、天理教の講堂に集められて、窓閉めっぱなしで暗いところで司令が来て、「お前たちの乗る飛行機はないんだ」と、「でも幸いにして特殊兵器ができた」と言うんだよね。「それに行ってもらえないか」という話になって、私は「いやどっちにしてもいいや」と思って「△」を書いて出した。どうしても行く人は「〇」を書いて、飛行機に乗るためにきたんだから航空隊でなくちゃだめだという人は×だったか。どちらでもいい人は「△」を書いて出した。
・〇を書いた人は9月に行ってしまった。私はそのあとになったから11月に行った。

〇1944(昭和19)年11月、長崎県川棚の臨時魚雷艇訓練所へ。

・最初に長崎県の川棚にあった臨時魚雷艇訓練所に行った。そこは④(マルヨン)艇といって、ベニヤ板のボートに250キロの爆弾を積んで突っ込む震洋特攻隊がいた。
・我々は海なし県で訓練を受けて海の経験がないからそこで一か月ばかり教育された。
・私もどこまで運がいいというか盲腸になってしまった。その前に予科練いる時もやっぱり盲腸のけがあって、一週間くらい入室して一か月くらい、訓練をやらなかったこともある。それで川棚にいったらやっぱりまたなった。あそこでは寒中水泳までやらされたが、私は盲腸の再発を恐れてそれをやらなくてもよくなった。
・震洋で体当たりする訓練をやった。大きな漁船を目標艦にしてそれにあてる訓練をやっていた。
・訓練中に船にぶつかる寸前に急に右に曲がったことがあった。そうしたら目標艦に乗っていた士官連中がみんなびっくりしていた。

〇1944(昭和19)12月、光基地へ。

・川棚での訓練が終わると今度は山口県の光にいって、本物の魚雷の講習会を受けた。
・最初は大津島が訓練基地だった。搭乗員が増えたから今度は光にもできた。光には海軍工廠があって、そこの宿舎に入って座学をやった。あとは平生にもあった。
・光にはすでに前から行っていた同期生が威張りだしたので喧嘩になったことがある。
・同じ同期ででも先に行っていれば先輩になって威張りだす。そこで元気のいい人が文句をいって、こっちから先に殴り込みにいった。するとそれからおとなしくなった。
・光では何人か出撃していくのを見送った。潜水艦に積んで出ていく。
・我々の同期生の連中も何人かいって死んでいる。

〇1945(昭和20)年4月中旬、大神基地へ。

・4月に大分県に四番目の人間魚雷の訓練施設ができた。解隊したのは4月25日。
・大神基地へついたらまだ出来上がっていなかったので基地建設に一週間くらい労働させられた。地元の中学生や小学校の高学年までやったみたいだった。
・一週間ぐらいしたら、予備学生の久堀中尉による魚雷の講義を受けることになった。
・私も案外好きで、もうひとり長野出身の人と気ががあって、その人と久堀中尉の講義をやる時には、一番最初から前列の真ん中に決めて、どっちかが席をとっていてまともに真面目に聞いていた。それで久堀中尉も目星をつけて、一番最初につれていかれることに私がなったんだよね。
・搭乗員としての訓練がはじまった時に試験があった。私は馬鹿真面目でよく講義を聞いていたからたいがいのことは頭の中に飲み込んでいた。それで百点満点ぐらいじゃなかったかと思う。そういうわけで一番最初から乗せられた。
・夜の巡検の時に「今から呼ぶ者は久堀中尉のところへいけ」と言われて、そこへ5、6人がいった。「ああこれは第一回の最初の出撃搭乗員の指示だな」とはわかっていたから覚悟はしていた。「だれだれほか参りました」と報告したら、久堀中尉が1人1人の顔を見て、開口一番なにを言うかなあと思ったら、「俺と一緒に死ねるか」って言われたよ。こっちは覚悟してたんだけどまさかねえ、そう簡単にいえないよ、返答できないよ。それでだれとなく「はい」って言ったら、みんな来るべきものがきたんだなあ思って元気よく返事した。それから訓練がはじまった。
・そこではじめて人間魚雷というのをはじめてみせられた。魚雷は一回走るとまた全部分解して掃除した。整備するのに普通だと2、3日かかる。もう徹夜徹夜で整備した。整備も大変だったよね。
・どういうふうに思うも何も、たしかにそれ今の人によくいわれるけれども、私はあの時、どうせ人間は生まれた以上はいつかは死ぬんだよ、遅かれ早かれ死ぬんだよ、だから俺が死ぬ時にはアメ公、アメリカの兵隊ね、アメ公の何百何千人をお供に連れていって死ぬんだというような、そういう考えでいたから。うん、死ぬっていう恐ろしさっていうのはなかったよね。
・だから私は国のためだなんだなんてこと考えない。
・みんな覚悟してるからね。こういう人間魚雷み乗って死ぬのがあたりまえだと、みんな覚悟してるからそんな話なんかしないよ、うん。いろんな本みるとどうのこうのね、書いてあるけども。
・搭乗員と名前がついているのは270、80人いた。その中から出撃搭乗員がだいたい10名くらいしかいない。その人間がところてん式に出ていったら後から行く。
・人間ばかりいても兵器がなかった。あの時、14、5基しか人間魚雷がなかったのかなあ。それがあんた二日おきにしか乗れないんだから。
・5月になってから訓練がはじまった。
・実際に乗った訓練をやるのは10人くらいしかいなかった。
・普通の魚雷の六倍も爆薬積んでるから、あたればどんな船でも一発で轟沈だよね。
・爆薬のかわりに水を入れて訓練していた。
・一番最初は四角に回る。それを5回やるとこんどは別府湾でも外海のほうへでて、航行艦襲撃といって、実際に大きい漁船を運航して、それに体当たりする訓練をやっていた。
・普通はだいたい12ノットぐらいで訓練するようにしていた。最後につっこむ時だけ30ノットの全速にする。
・潜望鏡をあげて、それをみながら操縦する。ある本で浮き上がって突っ込むと思ったら下向いて海ばっかりでよく観測できなかったというような記事をみたことがある。私はそんなことは絶対なかった。浮力の調節が下手なんだよ、常に浮力をマイナスにして走っていれば魚雷の頭がもちあがって尻尾だけ低いの。それでこのまますーってあがるんだよ、それで潜入する時もそのまますーって入るから、うしろから水しぶきもあげないの。私は発射するとすぐ100リットルの水をタンクにいれて、最初から浮力をマイナスにして航行したから水しぶきをあげなかった。
・傾斜器の気泡を見て、頭が浮いてるか、後ろが上がっているのかを見て、常に気泡が前にでるように重さを調節した。
・細かくタンクがあった。浮力を見ながらタンクに水を入れていた。
・最高30分ほどしか乗れない。
・ただ暑かった。
・黎明発射といって夜明けの訓練を清水一飛曹がやった。そうしたら自信がなくて、しょげていた。それで私が、「おい清水お前、自信がないのか」っていったの。「うーん」とか言うから、「そうかじゃあ俺搭乗してやるよ」と言って同乗することにした。
・黎明発射は一番朝の夜明け、目がまだ完全に開いてなくて危ないのでその訓練をやった。
・普通は全然乗ったことのない、訓練なんかやったことのない人間が経験のために同乗することが多い。同じ訓練をしてる人間が同乗するとやっぱり心強かったみたいだ。
・そして訓練が終わって基地へ帰ることになった。「おい、基地まで距離いくらある」と聞いたら「3000メーターだ」と言った。「ああじゃあもう少し航行しよう」ってわけだ。そんでまた上あがってみたの。そうしたらまだ首傾げているから「どうしたんだ、距離どのくらいあるんだ」と聞いたら、同じ「3000メーターだ」と言う。「なんだお前さっきも3000メーターだっていって、また3000メーターということあるか」というわけで燃料計を見た。そしたら燃料がそれこそないんだよ。それ以上進むわけにもいかないから私は止めて上がった。すると視察していた士官連中が「よく止まったなあ」っていうんだよ。湾口に入って来てどんどん来るので、これはいけないと危険信号で海の中へ投げ
込む小さい手榴弾みたいな爆薬を取りに行って投げつけようと思ったら止まったって。岸壁から100メーターもしない手前だったと思った。私が止めなかったらぶつかったみたい。だからよく止まったなあってみんなびっくりしたけれど、そういうわけで私が勘と度胸もよかったのかなあ。それで二人で怪我もなく帰ったことがある。だからそれが一番の思い出だよ。
・普通の兵隊と食物は違っていたと思った。だけど年中そこにいるからわからない。
・オブラートに包んだ航空食があった。それを両手でいっぱいになるくらい貰えた。それを舐めているとお腹がすかなくなった。後でその中には中毒をしない程度の覚せい剤が入っていたと聞いた。オブラートへつつんだ丸い飴玉。そればっかり年中ポケットに入れて舐めていたから、ご飯なんか食べたことないよ。
・兵隊が敬礼しなかったことがあった。それで「待て」といって待たして、「なんで敬礼しないんだ」と言ったら「足が悪いんだ」と言うから、「敬礼するのに足わるいからできないのか」と言って一発ぶん殴ったことがある。そうしたら一発でひっくり返っちゃった。その兵隊は二国兵といって37,8歳の兵隊だった。そういうのはもうやっと動いているような兵隊ばかりだった。それから兵隊を殴らなくなった。
・その兵隊のことを怒っている同僚がいた。俺も同じ兵隊を殴ってひっくりかえった経験があるから、俺がずーっといってよ、兵隊に「お前なんで叱られているんだ」っていったの。そしたらなんだかんだいってたよ、だから「ああそうか」と、そしてこんどは同僚に、「ちょっと申し訳ないけどこの兵隊は私が出撃搭乗員で、我々を面倒見て小間使いしてくれる兵隊なんだ」といった。それ実際はそうじゃないよ、そう言って、「俺よく聞かせとくから、俺に預けてくれ」って言ってね、それで殴られることなく俺がひきとって、「まあ気をつけろ」と言って帰しちゃったことがある。そうしたらその兵隊は喜んで、夜になったら一緒に飲みましょうなんていってビールを持ってきたくれたこともあった。
・第二国民兵は37、8歳、やっと動いてる人間が多いんだよ。みんなどこでも二国兵はいたんじゃないのかな。だからああいうのね、なんで兵隊にひっぱりだしたかなと思って。やることなくてもただいる兵隊もいたんだから。させるためにしたんだろうけど、なんにもできやしないんだよ。そういうのがたくさんいたよ、だからあとから考えたけれども、ああいうのひっぱりださないでね、やっぱり百姓で米作りでもやらせておけばよかったんじゃないかなあと思った。
・作業服みたいなのきて。ほんとに出撃する時には正装していったみたい。
・訓練が終わると5、6人が出撃する。だいたい潜水艦でいって3000メーターぐらい手前から艦長の命令で、つっこみやすい角度までもっていって、そこではじめて発射される。発射されれば当たっても当たらなくてもお終いだ、助けに来る人いないしね。
・海兵、機関学校出の人が隊長、予備学生あがりが副隊長で、それで我々、4,5人くらい。隊長が一番最初に出てそれでつぎからつぎへと我々が行って、最後に予備学生あがりの副隊長がいく。
・副隊長をしていた人に同じ福島出身の鈴木大三郎という人がいた。その人は潜水艦で出撃したが発射しないうちに終戦になって生き残った。同郷なので訪ねてきてくれたことがあった。【※予学4期、回天特別攻撃隊多門隊、伊366潜】
・事故は一回だけ。原村一飛曹が発射した途端に海の中へ突っ込んだことがあった。ロープでひきあげようとしてもダメだった。それで反対側の大分に軍港があったのかなあ、そこから牽引船がきて、ロープ縛りつけてやっとひきあげた。一時間ぐらいかかった。その時には一緒に静岡の清水も一緒に乗っていて、それで助かったんだよね。

○1945(昭和20)年8月3日、第11回天隊が大神基地から前進基地へ出撃。

・本当は私も一緒に行くことになっていたが、いくらか先に搭乗していた原村一飛曹を出せという上からの命令があったらしい。それで私が残されてしまった。
・一番優秀な水野が行かないで一番下手くそな原村が行ったとみんな不思議がっていた。
・そのまま私は行けなくなったので絹のマフラーを切った寄せ書きを清水一飛曹に贈った。戦後清水が亡くなってから何年か後に遺品整理をしたら出てきて、こういうものあったともらうことになった。
・そういうわけで私がいかなかったけども、残っちゃったために先任搭乗員が何人もいない。私が大先輩だからもうおそろしい人が誰もいなかった、士官でも回天の出撃搭乗員となると一目置いていた。
・向かったのは四国の麦ケ浦だった。一週間ぐらいで終戦になっちゃったんだね。

〇1945(昭和20)年8月15日、終戦。

・ラジオを聞いた。だけど何いってんだかさっぱりわけわかんないよ。いまみたいに優秀なラジオじゃない、あの当時ガーガーピーピーいって何いってるかよく聞こえなかった。そうしたら通信兵がはっきりと「いや、日本は負けたんだ」といってみんながわかった。士官連中もみんなわかったろうけども話をしないから。
・別府湾の反対側が大分航空隊だった。そうしたら8月14日の晩、なんか明るくて騒々しかった。なんだろうと思ったら次の日、大分航空隊の連中がみんな沖縄へつっこむんだっていうんだよ。それの次になってわれわれがわかったわけ、
【※8月15日の宇垣長官の特攻?】
・8月22日、呉鎮長官とか副官が全国の特攻基地をみんなまわって、日本が負けたことを知らせて手を打ったみたい。8月22日に呉鎮長官がみえてほんとに負けたんだとはっきりその時いわれた。そして、「日本は負けたたんだから、お前たちは、これから国へ帰って、日本を復興するために努力してくれ」と、「それがこれからのお前たちの忠義だ」と言われた。だから我々のとこでは騒動もおきなかった。
・終戦後、みんな我々軍刀をもって夜にぐるぐる歩いて監視したことがある。韓国とか中国あたりから作業員として徴用されてきた人間が暴動をおこしたところもあったらしい。ところが我々はそんなことなかったよね。あの時は韓国から来ていた兵隊もいた。そしたらね、「日本が負けた」ってね、泣いておったよ。うん、日本負けちゃったってね、もう泣いておった兵隊がいたんだから、あれ~と思ってね俺も感心しちゃったけど。
・それは別になんとも思わなかったなあ、だいたい状況がわかっておったから。海軍は世間の情勢、日本の情勢、ある程度認識しておったから。そう大騒ぎするほどでもなかったよね。
・終戦で上等兵曹になった。
・25日から帰ることになった。そうしたら私が24日の朝に盲腸になっちゃった。だからみんなが帰る前に別府の海軍病院に入院した。その時に退職金を千円くらい貰った。当時の千円は今では何百万円。
・海軍病院で看護婦にいろいろ面倒みてもらった。なんか風呂敷がほしいようなことをいったから、こちらはそんなの何枚ももってたからあげて、お世話さまって200円をその看護婦にあげてきた。その看護婦は広島の人で、戦後一回だけ手紙を出したくらいで、あとどうなっているかわからない。
・24日の夕方に手術した。それで「9月1日に日本へアメリカ軍が進駐してくるから帰れる者は早く帰れ」と言われて8月31日に帰ることになった。その時に診察を受けて「お前明日帰れ」といわれたよ。「だけど明日帰れっていったって私は盲腸手術してまだ一週間にもなんないんだよ」と言ったら、「いや大丈夫だ」とか言われて9月1日に帰ったと思う。
・東海道線で東京を通って帰れば一番近かったが、東京に行くとアメ公が進駐しているから見たくないと思って、日本海側をまわって新潟のほうから福島へ帰った。
・途中広島で一回停車して、一時間くらい乗り換えの列車を待ち合わせた。そうしたら広島、ほんとになにもなかったね。うん、「ああこんなにやられたのかなあ」と思った。
・新潟の長岡も広島とおなじでなにもなかった。徹底的に爆撃されていた。
・郡山はたいしたことはなかったが、不発弾が多かったみたいだった。実家の近くの学校の校庭にいくつか不発弾があって掘り起こしていた。
・帰ってから昔の郵政省の貯金局で働いた。そうしたらどうも女ばっかりで張り合いがない。一緒に入った一級上の先輩も飛び出してよそへいっちゃった。それで嫌になって辞めた
・昭和22年に埼玉にきて働いた。
・いまの京浜東北線の東十条駅は当時下十条といった。そこの電車区で友達のお兄さんが電車の修理やっていた。昔の電車といっても、窓もガラスもなんにもない、椅子のシートもなにもないような電車だった。その修理をする会社を紹介されて入った。そこに2年くらいいてまた転職した、
・はじめ私は経理マンだった。それで各会社の経理なんか面倒を見てたんだけども、最後に転職した水道関係の会社では自分から現場に出て行って水道工事を覚えた。
・それでどうせこれから生活するのに、人に使われてるんじゃ馬鹿らしいと思って水道工事の会社を1人で始めた。それから85,6歳まではみんなに負けないでやっていた。80代後半になってやめた。
・戦後10年くらいは人間魚雷の訓練をやったことを思い出したくなかった。だから話なんかしなかった。
・20年も過ぎたらやっぱり昔のことを思い出して懐かしくなって、じゃたまには会ってみようかなあとなった。
・昭和39年ごろ、回天の関係者が顔を合わせようということになった。
・その時に5、6人が集まって、じゃあ昔の基地へ行こうというわけで、大神の昔の基地へはじめて訪ねて行った。
・そこに予備学生の副隊長の中谷さんもいた。中谷さんとは光で懇意にしていて、一緒に夜なんか抱き合って寝たりしていた。名前が章で同じだから懐かしく思っていた。それでなんで俺のことを連れていかなかったと文句をいったことある。
・おそらく隊長も副隊長も関西出身で、あとに一緒にいったのは九州か愛知の人間が多い。私は福島出身でみんなと違った。やっぱりどうせ連れていくなら、隊長もおなじ郷土の人間をつれていきたいからはずしたんだろうと後で考えた。
・知覧には特攻隊員が最期に過ごした三角兵舎がある。そこに行って背筋が寒くなって黙とうを捧げてきたと言う人が多かった。私も後から知覧にいったが、「なんだこれ、おれが住んでいた兵舎と同じじゃないか」と思ってそんな気持ちにぜんぜんならなかった。一般のひとだったら、たしかに背筋がさむくなんだろうね。ああいうそのみんな、亡霊が出るとかなんかいうけども、やっぱりもうここが最後の部屋だっていうとこいけば、そういう霊がただよっているんじゃないかなあ。だから一般の人が行くと背中がさむくなんだよ。
・別にとくに考えてなかったなあ、ただ普通と違うのは、死ぬことを目的に猛訓練をしておったんだよ、普通の人間と俺たちが違うんだと、そのくらいしか思っていないね。だって普通の人間は死ぬために訓練、猛訓練した人いないでしょう。我々くらいの、回天の搭乗員くらいしかいないよ、だからまあそう、今でも思ってる、それだけだよ。別に、いや俺は人間魚雷、そういうとこにいたんだっていえば別に誇りともなんとも思ってないけれど、普通の人間と俺の生き方は違うんだと、それだけだ。

●最終階級:海軍上等飛行兵曹

スポンサーサイト
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://senjotaikenhozontabi.blog2.fc2.com/tb.php/3348-f1cea7fb
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック