あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
2018年ゴールデンウイーク、足元キャラバン(仮)の5月3日(木)の様子です。
メーリングリストより転載します。

◆◆◆

◎稲川 虎男さん
収録日:2018年5月3日
所属:満州229連隊(通称 第二国境守備隊)→ハルピン 263部隊→135師団370連隊第3大隊  歩兵
戦地:牡丹江 樺林
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1923年(大正12年)10月20日生
1944年(昭和19年)3月20日現役
綏芬河 満州229部隊

1945年(昭和20年)3月1日から6月末まで
ハルピン 香坊 263部隊

1945年(昭和20年)7月 135師団370連隊第3大隊
楚山で陣地構築。山下奉文大将がフィリピン方面に転身し、裸同然の編成で陣地構築をした。
8月9日 
ソ連侵攻。10日動員命令。雨がすごい日だった。民間人の後送と弾薬補給で、牡丹江と掖河の間をピストン輸送。邦人保護に万全を尽くせと部隊命令。
樺林街道に移動。蛸壺を作り布陣。前線から開拓民の群れと、一部敗走してくる兵士がどっと
寄せてくる。命令だったので、開拓民には何もしてあげられない。担当しているところから離れる
ことが出来ないので。
8月13日
轟音とともに大型のソ連戦車が現れた(T34)。135師団が保有している砲火では、歯が立たない。正面に当たっても関係なかった。破甲爆雷を抱え肉薄する突撃隊が投入された。蛸壺のそばをT34が通過するのを目の前に見た。やがて、戦車に随行したソ連軍歩兵がマンドリンを銃を掃射しながら、前進。激戦。稲川さんは途中、大隊長と本部の間を命令をもって伝令役だったので、ずっとその場所で戦闘をしているわけではなかったが、大変な光景だった。14日は丘の上の本部だった。
8月15日
部隊全滅寸前。撤退命令。南へ後退を開始。この時、終戦はまったく知らなかった。
交戦しつつ後退。これ以後、友軍との連絡は途絶える。
9月2日
飛行機のビラ、関東軍の投降掲示を見たが、敵の謀略であって、日本軍が負けたとは思わなかった。
9月末
敦化にて、満軍に離反通報で、ソ連軍に包囲。降伏。このとき、敗戦が本当だと知った。武装解除して徒歩で移動。途中、日本軍の死体の山を見て、埋葬したかったが、ソ連軍が隊列を乱すとマンドリン銃で威嚇してきて、叶わなかった。綏芬河から国境を越えてはハバロスク4地区エスベストコワヤ収容所に。

11月23日
ハバロスク4地区エスベストコワヤ収容所。数度の移動、交代組があり顔見知りはまったくいなくなった。体が弱かったので伐採作業はしなかった。民主運動はあまりなかった。
体が弱いし、労働に適さなかったので1947年(昭和22年)舞鶴に恵山丸で帰国。

*135師団370連隊
武器もない「素手同然」でソ連軍の中戦車T34、150両を相手に
3日間耐えた。38両を破壊した。部隊編成されたのは戦闘2週間前
の7月20日。稲川さんも編成式に参加していた。
装備は小銃ですら、入院患者の分を取り上げたものを装備。銃剣も
なく、シャツは3人に2枚。水筒とか雑のうはほとんどなかったそうだ。
野砲大隊は正規の12門はなく、8門。重砲中隊は定数の4門あったが、
ソ連軍の戦車数からすると十分な火力支援はできなかった。
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