あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
沖縄キャラバン2018、4日目3月27日(火)の様子です。
翌日28日の朝メーリングリストに流れたものです。そのつもりでお読みください。

◆◆◆

皆様へ

昨日も瑞慶山法律事務所をお借りしての聞き取り。

知念勝盛さんは左手の小指がありません。
1歳の時、伊江島で母におぶわれたまま後ろから撃たれ
皮一枚でくっついたものの成長しても
赤ちゃんの時の指の大きさのままだったので
25歳で切除しました。

(当時1歳の)僕の体験は軽いんだよ、という知念さん
指はあったらあったで説明しないといけないし
無かったら無かったで暴力団なのかとか聞かれるし
面倒で戦争の話はしたくなかった
手を出すときそこを隠しながら振舞っていました。

「でも撃たれて良かったと思う」
5歳以下の子供は泣くから殺せと日本軍から言われていたそうで
泣いたら殺そうと父が言っているのを兄は聞いており
「撃たれてぐったりしていたから静かにしていた
それでなければ泣いて殺されていたと思う。
何が幸いかは分からないさ」

集団自決が起こったアハシャガマにも偶々場所がなく
入れてもらえなかったということでした。

記憶がはっきりあるのは、慶良間諸島での収容を経て
伊江島に戻った頃からですが、当時の米軍の様子やガソリンの臭い
山のように不発弾を積み上げて導火線をひいて爆発させ
島全体が揺れるような不発弾処理を繰り返し行っていたこと、
その時住民はガマに避難をしていたことなど
写真で見る伊江島の艦砲射撃の激しさを改めて実感するお話でした。

********************
大城政子さんは当時4歳、
石に座らされ米兵からひしゃくで水をもらったことをなんとなく覚えています。
南部へ逃げる途中、母は政子さんをおぶったまま砲弾の破片で即死
祖母と叔母さんはおぶいひもから政子さんを石の上に下ろし
隠れる場所を探しに行きますが祖母はその途中即死
叔母さんも戻れず、政子さんは米兵に拾われたようです。

右膝の上に爆弾の破片を受け、左足には貫通銃創のある政子さんは
そのあとの野戦病院で寝かされていた記憶もぼんやりと。
孤児だと思われ看護婦さんに引き取られていましたが
沖縄の門柱の屋号と名前は言えたそうで、噂を聞いた
母方の叔母さんたちが探しに来て引き取られました。

お父さんは海軍で戦死、叔母さんたちのもとで過ごしますが
その後フィリピンから父方の祖父が帰国して引き取られます。
小学生時代から頭に野菜をのせて売りに出るなど苦しい生活でしたが
お祖父さんは優しかったからと不満は言わない政子さん。

野菜売りの最中に先の看護婦さんと再会をしており
なぜかお互いに分かったとか。

小柄で愚痴を言わない政子さんが、自分のケガのことなどはどうでもいい
母と父が亡くなったことを一言詫びて欲しい、私は母の顔も知らないと
そこだけ強い口調で口にしたのが印象に残りました。

沖縄キャラバンもあと1日、今日は渡嘉敷島に渡ります。
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