あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
沖縄キャラバン2018、3日目3月26日(月)の様子です。
レポートが届くのが翌日朝、ブログ係が仕事に出た後なので、さらに1日遅れでお届けしています。

◆◆◆

皆様へ

毎日充実した沖縄キャラバンを過ごしておりますが
そこは沖縄、ほとんど予定通りに進むということがありません。
瑞慶山法律事務所~沖縄事務所をお借りした昨日も、
リーガルビルの下で明らかにお話を伺う相手と思える方と出会い
「金城さんですか」と伺えば「大城です」
慌てて明日の予定者の資料をカンニングしつつ聞き取りをしていると
次の男性が登場!
午後の予定の知念さんが早く来たのかと思えば「金城です」・・・
そんなことにはさほど驚かずやっています。

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大城勲さんは昭和17年生まれで沖縄戦の記憶はありません。
父は移民先のフィリピンで召集され戦死、
母は勲さんをかすった銃弾が直撃し、勲さんを抱いたまま即死したと
聞いています。
小さいころは親は戦争で死んだと言われたけれど戦争の意味が分からなかったと。

勲さんがしきりに繰り返すのはお母さんが生きていたらなあということ。
お母さんの顔が分からんさ、写真も焼けてなかった
母方の叔母さんたちがいてどの叔母さんが似てるよと言われるけれど
やっぱり見たいのはお母さんの顔さ。

母の違う20歳離れた長兄がフィリピンから片腕を無くして帰国
力はあるけれど片腕ではさとうきびの束を縛ることも出来ないので
勲さんは小学生時代から早朝から深夜まで農作業に使いまわされ
「その時の使われ方は奴隷だった」
「なんで反抗できなかったね、それが悔しい」
支援金が払われなくなる18歳で無一文で家を出されました。

その後仕事を転々とし、22歳でベトナム戦中の米軍基地に雇用
戦地で壊れ銃弾のあとが生々しい車を修理しては
戦地に送り返す仕事をしていましたが
また日本は戦争に巻き込まれるのかなあという感じがして
自分のような子供を作りたくないと子供を作りませんでした。

お話の途中何度も、お母さんさえ生きていたらと繰り返す
勲さんの心の澱のようなものを何かで取り返す術がなく
辛い思いの残る聞き取りでした。戦争時の記憶がなくても、
まさしくこれも戦争体験だと思いながら伺いました。

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金城眞徳さんは当時首里に住む6歳
お父さんは防衛隊で戦死、首里から南部に逃げる時に置いていく
ことになった祖父母もその後死去、
壕を兵隊に追われることを繰り返しながら真壁まで南下
そこで砲弾の破片で兄と姉が即死
眞徳さんも頭蓋に負傷し朦朧としながらさまよい
その後また壕を追い出された直後に妹が爆弾の破片で即死
弟もその時の傷がもとで数日後亡くなりました。
6月22日に捕虜になったとき10人いた家族は3人になっていました。

逃避行のとき、自分よりさらに小さい子供たちが
一人きりになり「アンマー」(お母さん)と泣き叫んでいる光景を
2~3回見たこと、
月夜の夜に畑の真ん中で美しい高らかな歌声を聞いて
沖縄民謡ではなかったので兵隊さんが自分の故郷の歌を
歌っているのだろうと思ったことが特に印象に刻まれています。

戦後こどもたちも加わっての遺骨収容のお話なども伺いました。

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お二人の聞き取りを終えて今度は海が一際美しい南城市に、
そのお話は後日報告します。

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