あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
沖縄キャラバン2018に行っているメンバーが、メーリングリストに流していたものを転載します。
パソコンの調子が悪いとかで、投稿までに時間がかかったらしく、私がメールを開くタイミングと合わず、ちょっと遅めになりました。
25日の朝のつもりでお読みください。

◆◆◆

皆様へ

昨日から沖縄キャラバンが始まりました。
折しもその日の地元紙朝刊には、ひめゆり記念平和資料館の館長が戦後世代に交代したことを告げる記事。

昨日は1班は那覇市内でお二人の聞き取り。
沖縄戦の艦砲射撃で母と弟さんたちを亡くした新里キクさん(89歳)と、移住先のテニアンで負傷し孤児になった國吉眞一さんのお話を伺いました。

私はKさんと今回もお世話になる大城号で北上、金武の瑞慶山シズさん(79歳)のお宅へ。
着くとシズさんはてんぷらを揚げている真っ最中。
沖縄キャラバン経験者としてはこれは私たちのために違いありません(笑)。
地元で「野菜天ぷら」と呼ぶ野菜やもずくの入った天ぷらをいただきながらお話を伺いました。

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瑞慶山シズさんは両親が移住したミンダナオ島で5人姉妹の次女として生活していました。
父は軍作業に呼ばれた先で高熱を出し家に戻ってすぐに亡くなられ、島の戦争が始まったころはお母さんと姉妹だけでしたが、山中を逃げていく途中、母は「16キロ地点」で被弾して即死。

長女(当時7~8歳)が末の妹(1歳)をおぶって山奥へ向かいましたが、その妹は「19キロ地点」で栄養失調で死亡。
「死ぬぐらいならお母さんのところで亡くなればよかったのに」と長女が言ったことをおばさんたちは覚えていたそうです。

四女(3歳)は歩き続けられないとぐずりましたが、付いてこなければ置いていくしかないので「うっちゃんぎるよ」と言うと、坂道を転がり落ちながら付いてきた光景が焼き付いているそうです。
一方叔母さんたちが連れて歩いた三女は大きな川が渡れず行方不明になりました。

印象的だったのは、今でも米軍演習などの音を聞くとそういう距離ではないのに「ふっと爆風の臭いがして、悲しくなる時がある」
と話されたこと。PTSDの教科書に載っているような症状ですが証言として伺うのは初めてでドキッとしました。

戦後は長女と一緒に父方の叔母さんの家で育ちました。
(4女は母方の叔母さんの家で育つ)
中学校まで行っているのは「守られて育った」とご本人もおっしゃっていましたが、友達とも遊べず農作業に働く生活は子供心には辛く、「一度だけ『親と一緒に死ねば良かった』と言ってしまった。
言える立場じゃなかったのに、死ねばいいなんてそんなことはない、生きていたから良かった、それが当時は子供で分からなかった。親は5人の子供を作って10年足らずで死んでしまって、どういう気持ちで死んだんだろうと自分が親になって思うようになった」

最近、育った家の年上の従妹に「ありがとね」と言ったら、「あなたたちが『徳もち』だから助かったんだよ」と言ってくれたと。

後半マンゴ園!の作業から帰って来られて、シズさんの隣に座って話を聞いておられたご主人に馴れ初めを伺ったら、シズさんの働いていた従妹の家が台風被害に遭い修理にやってきた大工の棟梁がご主人だったそうで、「この娘が、私は孤児だからお嫁にいけないのと泣くから俺のところに来ればいいじゃないか」と言ったとか!
照れまくりながら言葉少なに話すご主人と涙ぐむシズさんと、生きていたから良かったと言える今があって救われる締めくくりとなりました。

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今日は私は名護で沖縄戦の体験者のお二人、1班は北中城村で南洋戦、読谷村で沖縄戦の方のお話を伺います。
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