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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
北海道チームが8月23日(月)に伺った証言の概要です。
札幌市で行った収録会に参加された3名のうちのお一人です。

◆◆◆

◎柏葉武雄さん

1930(昭和5)年3月2日生まれ
当時の本籍地 北海道

○9男2女の末っ子に生まれる。長女の子供が自分と年齢が同じぐらい。
 父親は年配者や朝鮮・台湾の人を使って請け負い仕事をしていた。
 25連隊で兵役を終えた長兄が帰ってきてその家に預けられたがそこに子供が生まれて自分は余ってしまった。
 早めに家を出ろという雰囲気が子供にも分かる。
 自分で自分の道は開かないといけないが炭鉱には入りたくないと思うと、選択肢は軍隊ぐらい、陸軍よりは海軍が聞こえが良いと思った。

●1943(昭和18)年8月or9月
 高等小学校に海軍の募集があり、応募。
 この年齢で受けられる兵種が限られており、第1希望飛行兵、第2希望電信、第3希望水測(何をやるか分からないから)で出した。
 願書を書いた記憶が無いので担任の先生がまとめてやってくれたのではないか。
 受験勉強の特訓を学校がやってくれた。
 少佐の面接があり、長男などは長く聞かれたが、柏葉さんは志望理由を「海軍が好きだからです」と言ったぐらいですぐ終わった。

●1944(昭和19)年1月
  電信兵の合格通知と5月15日に甲府海軍通信学校に入学するよう命令が来る。
  40数名の受験者で合格は1名のみ。
●1944(昭和19)年2月 ところが飛行兵の2次試験の案内が5名に来た。
○1944(昭和19)年3月 高等小学校卒業。
●高等小学校卒業後飛行兵の合格が決まる。


●1944(昭和19)年8月15日 人吉練習航空隊入隊。
 乙種飛行予科練習生23期。
 800人が入学、6ヶ月間主に整備を勉強。
  当時は飛行兵も先にその他の部門の勉強をさせていた。
 最年少に近かったので(3月生まれ)体力がなく大変だった。
 殴られるのも段々なれて兵隊に仕上がっていく。

●1945(昭和20)年2月 951空・鎮海海軍航空隊(朝鮮)へ。
 ○松根油の採取(航空ガソリンとして利用するため)と陣地構築。
 ○直接の戦闘は見ないが飛んでいった飛行機が帰ってこないのは感じる。
 ○年齢ではなく階級通りの扱いで一人前の扱いをしてくれるのが嬉しかった。たとえば煙草や酒も配給してくれた。実際には年長の者に渡していたが同じように渡してくれることが嬉しかった。

○乙飛はさほど教育を受けておられずものを書く事が出来ない。
 学徒兵はある程度人間として出来てから兵隊に行き、苦労はするが地べたから行くわけではなく、帰ってきたら社会的地位もあって体験を残すことが出来た。
 わだつみの声は死んでも後世に残ったのだから良かった。
 一番厳しい戦線に行き死んだ乙飛の先輩たちの体験は殆ど残らなかった事が、代わりに残せるのならどんなに良いだろう。残したかっただろうなと思う。

●司令部の移動に伴い巡洋艦「鹿島」に便乗して舞鶴に移動。
 ○無塗装の晴嵐(水上特殊攻撃機)の訓練を見かけた。
  液冷の飛行機を見るのは初めてだった。
 
●1945(昭和20)年8月15日
 定期進級で兵長に。

●1945(昭和20)年月日 復員
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