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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
少し前(11月11日)、北海道チームが8月21日(土)に聞き取りを行った佐藤正さんの証言概要を掲載しましたが、これはいろいろ史実を確認しながら最近まとめられたものです。
北海道チームが旅の途中で送ってきていたものもありましたので、そちらも掲載します。
北海道チームの旅のころは並行して中国地方番外編もあり情報がたくさん入っていたため、ブログで紹介したつもりでできていませんでした。すみません。
旅先でまとめられたものは雰囲気が違っていますので、いくぶん間違いも含まれるようですが、旅の記録ということで「簡易版」として並べて掲載します。

◆◆◆

◎佐藤 正さん
大正10年1月5日生
飛行兵 整備 (途中操縦)

昭和17年7月1日現役。
八戸飛行隊入隊 6ヶ月間訓練。
土地の名前も分からず移動。
昭和18年秋 茨城県つくばに配属。
昭和19年3月幹部学校に入学、4月まで学校。
特攻隊の志望を募られる。全員が挙手。(700名くらい)
健康診断、適正検査を受けて最終的に82名に。この中に佐藤さんも入ってしまう。

キ-62で特攻。任務は米軍艦艇の撃沈。
昭和20年2月硫黄島周辺の米艦隊へ特攻が計画。
出発前に飲めない酒を飲んでふらふらに。
つめ、髪の毛、を形見として遺すように助言を受ける。
上からの命令は、米軍艦艇の撃沈であり、それが果たせないと判断をしたら帰還することも許された。
結局硫黄島へは5回特攻したが、生還することができた。

沖縄戦への特攻が次ぎの任務。
9機編隊で特攻。途中、グラマンが上空で待機しており、レーダーで待ち伏せをされたと思われる。散々に追い立てられて、編隊は崩れる。
雲の切れ目を抜けると米軍艦隊上空に飛び出たが、とたんに激しい対空砲火。花火がたくさんあがっているみたい
だった。被弾をし、燃料も漏れ出した。海面すれすれに飛行して、上昇をしてなんとか切り抜け、帰還を決意。
上昇する際は燃料を使い、下降するときはエンジンを切って滑空する飛行でなんとか大分までたどり着き、着陸。30箇所に被弾をしており、副操縦士は死亡。

結局、特攻で選抜された82名は7名に。特攻する飛行機もなくなり、待機に。
飛行場で爆撃を受けること何度もあった。一度、4名で走って防空壕に逃げ込もうとしたら、同期の高橋が破片でスパッと腹を切られて、内臓が飛び出した。「苦しい」と言っていたので、無我夢中で爆撃の中を医務室に運んだが、死亡した。

終戦時、玉音放送を聞いた特攻の同士7名は意を決して自決を図ろうとする。どこで漏れたか自決をしようとしたときに周りから兵士が出てきてとめられて。

自宅に帰ったら、家族は腰を抜かした。特攻のことは知っていたので、戻るはずがないと思っていたようだ。父親が「しばらく外出をするな。恥になる」と言われたのは非常にショックだった。
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