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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
東東北チームが8月15日(日)の午前中に伺った証言の概要です。
東東北チームは、この方と一緒に、終戦記念日の正午のサイレンを聞きました。

◆◆◆

◎高橋清光(せいこう)さん

●1925(大正14)年1月21日生まれ

●1942(昭和17)年7月 陸軍軍属
 同級生6名と軍に志願するが色弱で不合格。
 職業安定所にいた叔父に南方は止めろと満州を勧められ軍属に志願。
 兄が入隊しており(昭和20年ルソン島で戦死)両親は反対。
 ハンを盗んで志願した。
 満州への渡航費(自己負担)を親が出してくれなかったので、お寺の住職に理由を言ったら貸してくれた。

○満州第581部隊陸軍被服廠(奉天)。
 防毒マスクのチェック、被服の運搬にあたる。

●1944(昭和19)年 母死去の報に10日間休暇を得て帰国。
 反対を押し切って渡満し、それが最後になったので後悔の念が強い。

●1945(昭和20)年4月15日 現役
 123師団 工兵第123連隊、満州孫呉へ。
 ・肉迫攻撃の訓練。
  みかん箱ぐらいの箱を爆弾に見立て、発火装置のひもを服のボタンにくくりつけ、手を伸ばして戦車の下に飛び込む訓練。
 ・爆薬の量を決める実験。
  戦車の壁の厚さを想定してどれぐらいの爆薬が必要かをみる実験。
 ・陣地構築、防空壕掘りなど

○同年8月9日 ソ連軍参戦。
 ソ連機が飛んでくるのを見る。
 兵舎へ戻れと伝令があり、新品の軍服・戦闘帽・靴が支給される。
 負けても恥ずかしくないようにと兵舎の整理をして出発。
○数日後 ソ連軍の戦車が数十キロに迫まる。
 道路・鉄道・橋など要所の爆破にあたる。
 橋の爆破はまだ友軍が渡れていないから待てという情報と、ソ連軍が近づいているから早くと言う情報が交錯して混乱。
 橋の上に人馬がいるまま爆破してしまい水に落ちる惨状。
○8月13日 特攻命令。
 数キロ先の戦車への肉迫攻撃の命令。
 分隊長と高橋さん、日本人1名、朝鮮人2名の計5名に、天皇の命令として受けてくれと言われる。
 ハンカチとペンを戦友に渡す。
 戦車の50メートルまで近づく。
 夜間で見えないので分隊長の白いハンカチを合図としていたが、一人が急に反対に走り出したので気付かれ機関銃掃射を受ける。
 沼に飛び込んで首だけ出して暫く待つが機関銃はやまず諦める。
 戻った5人に中隊長は「まだまだ機会はあるから」と言ってくれた。
○8月19日 敗戦を知る。
 道の両側には両軍の死体が積まれ臭いがひどい。
○8月20日 武装解除。
 中国人が笑って見ていた。手を叩かれる。
 小石を投げつけるこども達もいて悔しい思いをする。

○9月 アムール州・ブラゴヴェシチェンスクに抑留。
 当初収容所には日本人700名、朝鮮人300名がいたが、朝鮮人が日本軍将校を集めてつるし上げを繰り返した。
 これが3~4日続いて対象が古参兵にも広がってきた。
 そのため1ヶ月ぐらいで朝鮮人だけ別の収容所に移る事になった。
 別れる時、一緒に特攻するはずだった二人の朝鮮人が「国に帰ったら是非遊びに来て」と言いに来てくれたのが嬉しかった。

 仕事は製粉工場での作業。
 門で身体検査があったが、小さな袋に小麦を詰め、靴や帽子の中に入れて持ち出した。手に握って出ると灯台元暗しで気付かれなかった。
 農場の仕事もありこちらも作物を持ち出した。
 ドイツ兵がいたが話そうとすると銃を上に向けて撃ち脅された。
 
 シラミがたかり、2~3日ごとに新しい卵が孵る。
 煮沸消毒が徹底するまでチフスで3割ぐらいが亡くなった。

 民主化運動が始まり階級がなくなる。
 とにかく帰りたいので赤旗の歌も歌った。
 復員の船で共産党の指導について怒鳴り合いが起きたが暴力事件はなかったと思う。

●1948(昭和23)年6月19日 復員
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