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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
信州・北陸チームが、8月30日(月)に伺った体験の概要です。
長野県松代収録会1日目にご参加くださった3名の体験者の方のお一人です。

◆◆◆

◎酒井吉男さん

1918(大正7)年3月20日生まれ
当時の本籍地 長野県
衛生兵

●1939(昭和14)年1月10日 現役。
 近衛第1師団下志津陸軍病院 入営。
 初年兵教育3ヶ月は野戦銃砲4連隊で。
 原隊(下志津陸軍病院)に戻り1年間の衛生兵としての教育。
  内科、外科、整形、病理、薬剤などに分かれる。
  酒井さんは内科。
 さらに1年8ヶ月同病院勤務。
●1941(昭和16)年12月 除隊。

●1943(昭和18)年9月18日 召集。
 (保存会註:ご本人ははっきり金沢53部隊と言っているが後の話からすると52師団の勘違いか?あとの話からは野戦病院でなく52師団歩兵連隊付きのように思える。要本人確認)
 広島に移動し3ヶ月の滞在。
 鰹節の重い梱包の受領があり、海に行くのかなと思う。
●1943(昭和18)年12月25日 宇品港出航。
 行き先は知らされていなかった。
 3~4日目に夏服が配られ南方と知る。
 輸送船は天井が低く立つと頭がつかえてしまう。
 船内にはしらみが多くつぶしながらの航行。

●1944(昭和19)年1月5日 トラック島春島に上陸。
○衛生兵、主に防疫給水の仕事、防疫給水は春島、秋島にあった。
 病院は夏島にあった。

○1月7日、高く飛行機が飛んだ。今思えば偵察機。
 翌朝湾内にいた30数隻の軍艦が1隻もいなくなっていた。
○1月半ば頃より連日連夜の爆撃、10機編隊ぐらいでやってくる。
 俗に1トン爆弾と呼んでいたが爆弾が落ちると部屋ぐらいの大きな穴があく。
 最初は威力を知らなかったのでたこ壺のようなものを掘っていたが、隣の工兵部隊30名が一つの爆弾で全滅してしまった。
○2万人が2年間過ごせるだけの食糧があると言われていたが、爆撃は倉庫を狙っておりまず食糧をなくす方針。
 残った食糧を分配し、さつまいもの栽培も。
 そんなことばかりしておられないということで沖縄人の軍属を現地で召集して漁業班を作った。大きなカツオを2人で1匹、醤油はないので塩でおさしみを食べたが大変おいしかった。
 ダイナマイトを浅瀬に投げ込んで浮いてくる金魚のような魚も捕った。
 水に落ちた籾殻からたまたま発芽して一部屋分ぐらいの水田を作ったことがあった。米は大変おいしかったが一度だけ。
 島民のパンの木が年2回の収穫。
 ねずみの蒸し焼きはおいしい、とかげは小さい。
○現地の人を使役に使っていたが、良く働いてくれ作業は早かった。

●1945(昭和20)年8月
 米軍の使役で、日本軍の飛行場の修理をして米軍が使えるようにする。
 米軍からの食料の補給はなく、これまで同様魚を捕る。

●1945(昭和20)年11月 横須賀に復員
 食料事情の悪いところから先に帰したのでわりに早かった。
 婦人会の女性が日の丸の小旗で迎え嬉しかった。
○帰郷すると父が亡くなっていた。
 (松代)大本営が来る事になったため理由は告げられず。
 1週間のうちに引っ越せとなり皆泣きながら引っ越し先を探したという。
 大本営の設営のため大量の朝鮮人が連れてこられ、川の汚染が起こって赤痢が流行した。
 父はこのため58歳で亡くなった。
 息子が出征している間に同様の理由で親が死んだ例が30家ほどあった。
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